2017年11月16日

映画の歴史4: 切り返しと対立構造

映画は切り返しを獲得して、物語を描く為の本質的道具を得た。

物語とは何か?
対立とその結果である、といえるからだ。


切り返しは、二人の登場人物を切り返す。
A→B→A→B→……
と延々とラリーが続く。
これが示すものは、対立である。
そもそも対立していなければ、
向かい合う必要がない。
たとえば同じ方向を向いてもいい。

切り返すカット割りとは、すなわち向かい合う対立のときに出て来るのだ。

逆に、対立を描きたかったら切り返しになるような配置を、
仲間であることを描きたかったら向かい合わない配置をするとよい。

「立ち位置」という言葉がある。
抽象的な意味で普通は使うけど、
映画の現場でいう立ち位置は、
ほんとに立つ場所のことだ。
どこに立つか、どこにいるか、そしてどこを向いているか。
絵の中での登場人物の立ち位置で、
彼らが対立しているのか、
仲間なのかを、示すことすら可能なのである。

だから役者は、立ち位置を気にする。
カメラからどう見えているかを。
それは演劇的な、一種の様式かもしれない。
リアルでは立ち位置と人物同士に関係はない。
(上座や下座はありそうだけど)
しかし映画においては、明確に、
切り返しが必要な立ち位置と、必要ない立ち位置がある。

それは、対立しているかどうか、していないか、
ということに関係している。

なぜ、対立なのか?
ストーリーとは、対立だからである。


「ドラマとは葛藤である」と脚本の入門書にはよく書かれている。
これは誤訳である。
Drama is conflict.
を誤訳したのだ。
conflictに葛藤のような静的な意味はない。
あるとしても優先順位の低い意味だ。
第一の意味は衝突である。
(このことについては過去記事が詳しい)

ドラマとは、衝突である。
人間同士の衝突である。
物理的衝突ではない。(物理的衝突をしたら入れ替わる話もあるけど)
つまりは両者の対立である。

誰かと誰かが対立するのが、ドラマだ。
その状況にどうやって陥ったのか、
対立してから何が起こるのか、
どういう行動があるのか、
それは最終的に、
和解するのか、どっちかが敗北するのか、
両方痛み分けなのか、どっちも勝利するような新しい結論になるのか、
などの結果までいく。

これまでの議論から、
ストーリーには「解釈」があるべきだ。
それにどういう意味があったかということ。
つまり、その対立には、
どういう意味があったのか、
分からなくては意味がない。
その対立がどういう結末を迎えたかで、
映画はその意味を示す。

正義が勝利し、悪が滅びれば、
それは勧善懲悪という意味になる。
理想主義が破れ現実主義が勝利すれば、
それは現実は理想を崩すという意味になる。
惚れた女の為に、偏屈な自説を曲げる話もある。
(「恋愛小説家」)
それは壁をつくらずに、素直になろうよという意味の話になった。

ストーリーとは対立である。
しかしそれはストーリーの一部しか語っていない。
どういう対立がどういう結末を迎えたかで、
その対立の意味は変るからだ。
対立したが永遠に決着はつかなかった、
という話は、ストーリーではない。
落ちがない話はストーリーではない。

落ちとはすなわち、対立がどう解決したかということと、
それがどういう意味があったかということ。
それがない限り、
映画的ストーリーはストーリーの体をなしていない。


切り返しは対立だ。
映画は編集を得た瞬間に、
切り返しという対立構造を得た。

そしてそれは必然、ストーリーが対立を中心にしているということだ。
対立しないストーリーはストーリーではない。
対立が終わらないストーリーは落ちがない。
それはストーリーではない。
それがどんな意味があったのかという解釈を示せないからである。
(唯一ある解釈は、「対立はやまない」という人類の本質を示すときだけだ)



さて、このような先人たちが切り開いてきた映画のストーリーについて、
無知なものは以下のようなものをつくってしまう。

落ちが微妙なもの。
落ちてないもの。
それがどういう意味があったのか、よく分からないもの。
対立のないもの。
対立が対立にならず、うやむやになってしまうもの。
決着がつかないもの。
決着で語らないもの。(テーマを長い台詞で演説してしまったりする)


今までそれをやって失敗してきた歴史があることを知らないのだろう。
それは無知である。
過去から学ぶと良い。
失敗作と言われているものをよく見るべきだ。
今では入手しにくいものも沢山あるだろうけどね。
(興行的失敗作品と、内容的失敗作品は、一致しない。
僕はたとえば「ハウルの動く城」は内容的失敗であったと考えている)


なぜラブストーリーはケンカばかりするのか?
ラストで和解し、「我々は愛し合う」ことを結論にするためだ。
なぜヒーローは一度敗れるのか?
対立をより面白くし、最後にはその勝利を面白くし、
正義は最後に勝つと結論付けるためである。

対立すること。
それが決着すること。
それがストーリーだ。
対立の仕方やケンカの仕方や決着のつけ方は、
一様でなくてもいい。
むしろ、そこにこそ新しさが必要とされている。


ちなみに、歴史の軸はまだカラー映画になっていない。
白黒時代にこれらはすべて完成されていた。
ビリーワイルダーの映画などの名作を見れば明らかである。
(どうしても3本に絞るのなら、
「アパートの鍵、貸します」「サンセット大通り」「お熱いのがお好き」
を薦めます)


あとは映画はカラーになり、CGが入り、3Dになったりしていく。
しかしこれは本質的なことではない。
映画はテクノロジーを見世物にしてきたからだ。
つまりこれらは見世物要素だ。

次回は、実験ということをテーマに、
この続きを書いてみる。
どのような試行錯誤があったのだろうか。
何を成功し、何を失敗したのか。
posted by おおおかとしひこ at 12:21| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。