2017年11月17日

映画の歴史5: 実験と失敗と教訓

余計な横槍が入った。
せっかく本気で歴史と向かい合ったのに。
つづけます。


映画の歴史は実験の歴史である。
成功したものもあれば、失敗したものもある。
歴史に無知なゆえ、失敗を繰り返しているものもあれば、
意欲的に実験をして、その成果があったものもある。

いくつかの例を見てみよう。



前記事までの議論から、
映画というものは、以下の様なものである。
()内はそれに対する反論と失敗例。


・見世物だけだとすぐ飽きるので、繰り返しに耐えられる内容がよい。
それは、ストーリーという人類の至宝である。
(見世物だけでええやんか。ストーリーなんて添え物や。
ドカーンバーンイケメンで興行したらええんや→邦画は壊滅的になった)

・音楽はストーリー進行や感情を補完する。
(単純な感情、たとえば泣きだけを大袈裟に増幅する音楽。
今面白いことが起こっていますよ、と説明するために使うとか。
音楽と感情は両輪なのに、それが出来ていない。
主題歌を適当なアイドルに作らせて、
主題=テーマを歌っていない)

・身体的行動でのストーリー進行。
(説明台詞の多用。棒立ちばかりの身体的ダイナミズムの喪失。
アップばかりの詰まらない進行)

・短い台詞で勝負をかけること。
(心に残らない糞台詞。長いだけで説明しかしない台詞。
最悪はテーマを演説し始める。→実写「キャシャーン」)

・カット割りで注視範囲をコントロールする
(下手なカット割りはどこを見ていいかわからない。
視線の誘導、意識の誘導、騙しができていない。
ひらたくいうと、分かりにくいし面白くない)

・カット割りをすることで、映画は「解釈」を得た。
(ワンカット映画「バードマン」、面白かった?
「ロープ」はなかなかだけど、「それが何?」が最後に残るよね)
(解釈はどうでもいい。人気原作を使っとけば客は入る→邦画の壊滅)

・つまり解釈とは、作者が「この話がどのような意味をなしているか」
というテーマそのもである。
(YouTubeのようなゴミ動画の量産。オチなしの量産。
それは見世物時代に戻ることと同義である)

・映画は最新技術のテーマパークである。
・同時に、「新しいリアル」というものを作らなくてはならない。
(同じことを延々繰り返す邦画界は、内容的壊滅の危機にある)


・ストーリーは対立だ。
(対立しないストーリーがあってもいい。
たとえば日常系があるやん。→「ホーホケキョ山田くん」という歴史的惨敗作を見るがよい。
最後まで一時停止をせずに見れたら、相当あなたは映画に対するリテラシーが低い)
(対立するほど人が出てこないものはあるか
→セカイ系。コミュ障を増やしただけだ)

・対立は、落ちをもって意味をなす。
(落ちてない映画はつまらない。
たとえば「ゾディアック」「マルホランドドライブ」を最後まで見て見なさい)





新しい要素を取り入れることは、
成功もあれば失敗もある。
その実験こそが映画史である。

<成功例>

・80年代にMV的な演出といわれたもの。
音楽に合わせていろんなかっこいいモンタージュを作る方法。
マイケルジャクソン「スリラー」が一番歴史的か。
今では当たり前になったけど、当時は斬新だった。
つまり、そういう定番を作ったのだ。
僕が好きなこういうものは、「ロッキー4」のトレーニングモンタージュだ。

・特撮、CG
パペットやミニチュア、カメラトリック、合成から、CGまで。
「現実にはありえない」という見世物を作ることに大成功した。
もっとも、「それがなんの意味があるか」まで辿りつけた作品が名作になり、
「ビジュアルは良かったが、ストーリーはたいして面白くない」は、
駄作として歴史に残っていない。たとえば私たちの世代は「DUNE砂の惑星」で、
ものすごく騙された。


・特撮的なもの以外のCGの使い方
有名なのは「フォレスト・ガンプ」の「両足を失った人」。
普通に両足がある人をCGで消している。
ロボットや宇宙人や怪光線ではなく、
そのようにCGを使うこともできるのだと世界に示した。
つまり、その瞬間、CGはどんなビジュアルでもつくれるようになった。

・実話を基にしたもの
昔からこの手のものは小説の定番であった。
しかし実録を旨とせず、エンターテイメントとして昇華した小説こそが、
物語としての命を得ていたはずだ。
その小説を底本に、さらに凝縮した解釈で挑む映画こそが名作を生む。
「カッコーの巣の上で」「ブレードランナー」をあげておく。


<失敗例>

・金だけかかって中身が面白くないもの
とんでもないビジュアルは、見世物として最高だ。
映画史の初期の「イントレランス」をあげておくだけで、
それにはなんの物語的価値がないことはわかるだろう。
一回最後までみてみ?全然おもんないで。
つまり、見世物の刺激は、どんどん過激になっていくんだね。

・ループ落ち
落ちがまた初期状態に戻るのは、
なかなか斬新な構造を生む。
しかし類作がたくさん増えたことで、斬新でもなんでもなくなった。
結局、「業が繰り返す」ことしか結論できないからだ。
「人はなにも変えられない」という虚無主義を生んでしまうだけだ。
僕は、それは芸術ではないと考える。
芸術は、人類を前進させるべきである。
「メメント」のオチは、はたしてあれで良かったのか?


・落ちがない作品
まあひどいよ。「ゾディアック」を見た3時間を返してくれよ。


・台本があるから段取り的になる。アドリブこそライブ感があっていいんじゃね?
「好きだ。」「七夜待ち」を見ればよい。
脚本というものが、いかにこのうんこと対極であるかがわかるだろう。
まあうんこ並みの脚本もあるんだけどさ。


歴史とは、失敗と成功の積み重ねだ。
一発で成功する人はいない。
何回か失敗するから、そこで学び、
「これじゃだめなんだ」「こうじゃないか」「これがよかったのか」
と成長することができる。

勿論、自分で全部失敗して学びなおしても良いが、
映画制作は億のギャンブルなので、全員ができるわけではない。

爆死したものを見て、どうすれば次に成功するか考えることは、
バーチャルだけど勉強になる。



アプリオリ(何も考えず生まれたまっさらの状態)の発想は、
素直でときに革命的であるが、
ときに先人が失敗してきたこととまったく同じこともある。
「誰もが同じ発想をして、誰もが同じ失敗をしている」という状況だ。
そして、大部分が後者だったりするのだ。


クルマはなぜ今のような形をしているのか、と同じだ。
人が作ってきたものには、失敗と成功の歴史がある。
例であげたものは全部みなさい。
ここで言っていることが骨身にしみるだろう。
歴史をまなぶとは、そういうことだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:40| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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