親指シフトの言い分によると、
指がしゃべり、思考がそのまま文字になり、
ついにはキーボードが消えて、
頭とディスプレイが直結された感覚になるという。
ようやくカタナ式でそのようになってきた。
まあ半年くらいあればそうなるということだ。
昔はそんな馬鹿なと考えていた。
しかし考えてみれば、
ペンとはそのような道具である。
鉛筆やボールペンやシャーペンやGペンなど、
何を使い慣れるかはその人によって違うけど、
使い慣れたいつものやつなら、
それは存在を消し、
自分の意思と紙だけの世界になるはずだ。
使い慣れてないボールペンを使うと、
違和感があるまま字を書かないといけない。
僕はマイボールペンを20年以上固定していて、
常にズボンの左前ポケットに差しているので、
他人のボールペンを借りることはあまりない。
でもたとえば、ホテルのチェックインのサインの時とか、
カウンターに差してあるボールペンを薦められるからそれを使うけど、
なんでホテルのチェックインボールペンはあんなに違和感があるのか。
それでも、おそらくは15分も使えば違和感は消えて行く。
手というのはそれくらいには適応力がある。
いつも使っているパソコンの、マウスがそれに近いよね。
他人のパソコンのマウスほど、違和感がある代表だ。
僕はAVIDは自分でやるので、
よく編集室のマウスを一日握らなきゃいけないことが多い。
午前中いっぱいとか、慣れるまで時間がかかる。
(そもそもカーソルスピードやクリック間隔の設定からしなおすことがある)
慣れるまではつまり、
その筆記用具は消えない。
慣れたら消えるというやつだ。
僕はペンタブが使えない。
マウスで絵を描いている。
それは、マウスは消えるけど、
ペンタブは消えてくれないからだ。
さて、配列はどうだろう。
フリックは消えている。
勿論見ながら指の位置を決めているが、
意識としてはブラインドで打っている。
QWERTYローマ字は消えなかった。
ブラインド出来ないし、
指とキーの連動は全然できていない。
カタナ式が、最近ようやく消えてきた。
もうキーボードを触っている感覚はない。
脳で考えれば指が自動的に実現する感じだ。
自転車にたとえると分かりやすいかもしれない。
右足の次に左足を、とか、
ハンドルはこれくらいの角度で、とか、
曲がるときは体をインに傾け、
ハンドルはその慣性についてくる、
とか意識しない。
「そこのコンビニまで行く」しか意識しないし、
意識するのは障害物や交通ルールだけだ。
僕にとってのカタナ式はそこまできた。
つまり伏線と回収のことや、
言葉はこれが妥当かどうかとか、
書きたいことの今どの辺かとかは、
意識するけれど、
カーソルがこことか、
句読点がこことか、
今アルペジオだなとか、
そういうのは意識しなくなってきた。
(記号を打つときはまだ意識する)
漢字変換はこれでいいかな、と意識することも減ってきた。
長文を打って変換すれば大抵正確に変換してくれる。
数文節打てば大概あってる。
意図的にひらがなにしたいときはそのままエンターだし。
固有名詞のときだけ漢字のことは意識して、
この時だけ配列がちょっと意識に登ってくる。
多分だけど、
親指シフトが言うところの、
キーボードが消えるというのは、
こういうことを言うのだろう。
ようやく僕は、
ボールペンや自転車のように、
キーボードを無意識の側に追い込めた。
カタナ式で。
概ね半年くらいかな。
記録を見ると、
薬指小指を捨てたv6が、現在の原点だと思う。
それ以前の配列は、まだ単なる行段系の1バリエーションに過ぎず、
オリジナリティはたいしてなかった。
(中央制御系と母音三段くらいかな)
それを、人差し指中指しか使わない方針に組み立て直してからが、
カタナ式が化け始めた瞬間だ。
このスタイルに別の名前をつけたいのだが、
いいネーミングを思いついていない。
(六本指しか使わないから六式、というのを思いついたら、
ワンピースで使われていたのは以前に書いた)
しょうがなくカタナ式を使っている。
(そもそも由来は、KTNが左人差し指のバインドだったことから。
もうそれも移動して、意味をなさなくなっているので…)
なんかばりっとしたやつを考えなきゃなあ。
名前はどうでもいい。
「例のプール」なんて名前の付け方もあるのだ。
キーボードは消えることが出来る。
それはデカイね。
勿論QWERTYローマ字でそこに達している人もいるだろう。
でもそれより遥かに合理的だぜ。
2017年11月19日
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