中弛みをどう捌くか。
中弛みは必ずある。
最近僕はそう思うようになってきた。
かつては、
理想的には、トップシーンからグイグイ来て、
目も眩むような展開となり、
夢中になっているうちにクライマックスになり、
ああ面白かった、
となると考えていた。
しかし、色々書いてるうちに、
中弛みの時間は必ずやって来るのではないかと、
最近思うようになってきた。
中弛みというと欠点のように思える。
言い換えよう。
それは、「観客が考える時間」といってよい。
物語の最初のあたりは、
心を奪い、非日常の世界を見せるために、
いきなり心拍数を上げていくことが多い。
いわゆるツカミである。
では、鷲掴みに掴んだとして、
あとは振り回せば正解なのか。
多分違うと思う。
ジェットコースタームービーは、
面白いけれどあとに何も残らない。
たとえばそんなのが言われたのは、
「インディージョーンズ」や「グーニーズ」あたりの、
娯楽派閥のころのスピルバーグだったように思う。
あとに何も残らないけれど、
ただ起こっていることに夢中になっているうちに時が過ぎるという。
娯楽映画といえば聞こえはいいけど、
僕はこれは単なる時間潰しではないかと考える。
娯楽映画は芸術じゃない、
芸術映画は娯楽がない、
という両極端な議論に僕は興味がない。
優れた娯楽で、優れた文学であるべきだ、
と僕は映画を捉えている。
少なくとも、ジェットコースタームービーでは、
観客は頭空っぽで見ている。
感情で動く動物に戻っている。
動物のような鳴き声とリアクションしかしない。
逆に考えれば、
観客に、考える瞬間を与えればいい。
「犯人は誰だろうか/あいつじゃないか」と考えさせたり、
「あの人は何か隠しているのでは」と考えさせたり、
「一体どういうことだ?」と考えさせたりする。
そのとき初めて、観客は物語に参加する。
勿論、参加させてしまうと、
作者はそれを上回らなければならない。
観客に落ちを予想されてしまったり、
展開を読まれてしまうからである。
考えるためには、落ち着いて立ち止まる必要がある。
僕は、その時間帯が、中弛みの時間だと最近思うようになった。
ただ巻き込んで一気に駆け抜けるのは、
デートで言えば相手のことを全く見てない、
一方的なものだ。
相手の目を見て、相手が今どう思ってるか予測して、
間をとったり次を省いたりしなければならない。
勿論更に策士は、相手がこう思うように誘導したりもする。
あるいは、プレゼンでもそうだ。
自分の言ったことを相手が理解したかどうか、
目を見て表情を見ながら、
間をとったりして調整するべきだ。
相手の理解が追い付くような時間帯。
それこそが、計算された中弛みの時間帯であるべきだと、
僕は考えている。
じゃあ、その時間帯、
登場人物は何をし、焦点はどこを向くのか。
おそらく、「今起きたことはどういうことだ?」と、
解説を求めて考えているのではないか。
つまり、観客と同じ時間帯にいるということ。
このシンクロ性があるからこそ、
観客は主人公と共に冒険している感覚を得られ、
感情移入の材料になるのだ。
あいつのしたことはどういうことか。
この謎を解くにはどうすればいいか。
一体全体何が起こっているのか。
結局何が鍵なのか。
あの言葉の意味は。
こういうことを複数人で話すシーンが、
必ずあるはずだ。
(モノローグを使わない限り、
一人で考える内容は伝えられないので、
考える内容を外に出すとき、
複数人で話すシーンに作り替える)
「一体何が起こってる?」
「どういうことだ?」
「僕も全部わかってないんです」
「誰なら把握してる?」
「おそらく、こうではないか」
「僕の考えでは…」
などの台詞は、
こういうシーンで頻出のものだろうね。
このとき、登場人物たちとともに、
観客は同じことを考える。
あるいは、劇的アイロニー
(観客は知っているのだが、
登場人物はそれを知らされていない状態)
をうまく使うのもよい。
登場人物がそれを知ったときどうなる?
という予想をしながら、
観客は登場人物以上に考えることとなるだろう。
小説や漫画においては、
実はこんなシーンは必要ない可能性がある。
読む速度を落としたり、ものによっては本を閉じて、
トイレにでも行きがてら考えればいいからである。
しかし映画はそのように自由に時を止められない。
ちなみにテレビは人為的に考える時間を与える。
約15分おきに入るCMによってである。
だから、大抵CM前のヒキは、
大変なことが起こって、一体どうなるんだ?
と考えさせるところで終わることが多い。
CMの間に考えさせる時間をとる仕組みだ。
余談だが、だから映画の地上波放送では、
この考えさせるリズムをうまく考えてCMを入れないと、
簡単に観客に上回られてしまうことがある。
編集が下手な地上波放送ではまれによくある。
さて。
観客に考えさせる時間を与えよう。
勿論これはミスリードでもいいし、
恐らくそっちのほうが理想だ。
情報を制限してもいいし、
間違った情報を混入してもいい。
混乱させ、危機を煽り、謎を振り撒いたあとには、
必ず、「一体これはどういうことだ?」
というシーンがある。
その時に、新しい情報を得たくなるのは人として当然だ。
その時に、我々作者は、
世界の設定や事件の設定の一部を、
小出しにしながら巧妙に設定していくのである。
つまり、中弛みとは、
追加設定、明らかになった新事実などにたいして、
登場人物たちが「理解していく」という時間帯のことだと思う。
詰まらなくて単に中弛みしているのとは、
天と地の開きがあるよね。
うんこ映画、実写ガッチャマンの、
オープニングバトル明けの、
糞みたいに詰まらない仮面舞踏会潜入シークエンスを思い出そう。
これは真の中弛みである。
2017年11月21日
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