2017年11月24日

まあまあの危険

ストーリーの線は、
前に目的、後ろに危険があるものだ。
○○したいから行動したり発言するし、
△△が迫っているから(仕方なく)行動したり発言する。

後者の危険にはいろいろなものがある。
とくに、まあまあの危険を取り出して考えよう。


深刻な危険とは、
失敗したら死ぬとか、地球が滅亡するとかいうやつだ。

まあまあの危険とは、
雨が降ったらやだなとか、
ちょっと嫌な顔されるかもなとか、
怒られるからとか、
だるいなとか、
その程度のものだろう。

大人の事情なんてのもまあまあの危険かな。
言うこと聞かないと抹殺するよ、
だったらかなりの危険だろう。


さて、これらは、実は、
「そのキャラクターから見ての危険」であることに気がつこう。
どういうことかというと、
「観客にとっての危険の度合い」と、
ずれているかもしれないと言うこと。

そのキャラクターが死にそうで、
崖から落ちそうで右手一本で捕まっていようと、
私たちが無関心ならば、
私たちはそれに微塵の危険も感じない。
(もっとも、我々は脳の中にミラー細胞があるため、
多少はその人の危険を我がことの危険のように感じはする)
つまり、そのキャラクターの危険が100だとしても、
私たち観客には1とか2とかの時がある。

逆に、そのキャラクターにとっての危険が20くらいでも、
私たち観客には100の時がある。

たとえばアメリカ人にとって津波や洪水のシーンは、
デザスターの一場面でしかないだろう。
隕石落下や火山爆発と同程度の、CGでよく見るやつだ。
ところが、311を経験した我々日本人にとっては、
それはとんでもない痛みと悲しみを伴う。
津波を高台に逃げて避難するシーンなんかを見るとき、
そのキャラクターやアメリカ人にとっては、
電車に走って飛び乗る程度の危険かも知れないが、
我々日本人にとっては、100の危険に見える可能性が高い。


つまり。

画面の中のキャラクターと、観客の感じる危険には、
温度差がある。
かつ、観客の経験によって、
画面の中のキャラクターの危険は、バラバラに解釈される。

たとえば、
「ヤリチンが浮気がばれて複数の女に囲まれる危険」
は、多くの人にとってはどうでもいい危険だが、
ヤリチンにとっては身に詰まされる、
凹むシーンではないだろうか。

犬が死ぬシーンは、
犬を飼ったことのある人とない人では、
響き方がまるで違うだろう。



さて本題。

そのキャラクターにとっての、
まあまあの危険と、深刻な危険と、
観客にとっての、
まあまあの危険と、深刻な危険を、
一致させていくことが、映画である。

どんなにキャラクターが深刻な危険に必死になっても、
観客にとってはまあまあの危険にしか見えないから、
観客は乗ってこない。
これを、「滑っている」という。

もちろん、キャラクターにとってのまあまあの危険が、
観客には深刻な危険に見える場合も、滑っているけど、
どちらかといえばレアケースかな。
(しかし、牛乳石鹸の炎上CMを思い出すに、
大したことないと制作者が感じていることが、
世間にとっては物凄い大事だという、
無能な滑り方も世の中には存在する)


さて。

滑らないためにはどうするか。
センスを鍛えろというのが結論だ。
つまり、
「これはキャラクターにとって深刻な危険だが、
観客にはまあまあの危険にしか見えていない」
などのように、感じられるかどうか、
という感覚を、である。

もしそう感じられれば幸いだ。
観客にも深刻な危険であるようにリライトすればよい。

崖に捕まっているシーンなら、
靴が脱げてはるか下にポチャンと言うとか、
持っていたスイカが落ちて下の岩に突き刺さってパーンと爆発するとか、
誰か別の人が先に落ちて死ぬとか、
そういう描写を重ねると、
ここの危険の具合に、
観客が入ってこれるようになる。

視覚以外の感覚を使うのも有効。
聴覚ならば、耳を切る風の音だけで恐怖を感じることもあるだろう。
音楽で盛り上げるのはよくある手だね。
触覚ならば、
たとえば崖を握る手が滑って、慌てて掴み直すとか、
クレーンで移動撮影し、
崖から海にカメラを放り出して恐怖を煽ることなどが出来る。
汗や血などは、触覚に訴える表現だ。

ただ崖からぶら下がっている絵だけでは、
その深刻な危険を観客が感じない。
だからこのような付帯状況を加えて、
その深刻な危険に観客を巻き込んで行く。
あるいは悪者が台詞でいってもよい。
「ここから落ちて助かった者はいない」
「この高さから落ちれば、海面はコンクリと同じ固さだな」
「お前、体育の時間の懸垂得意だったか?」
などなど。
最後のがかなり優秀で、
触覚や記憶に訴える台詞になっている。
恐怖は目の前のものと想像を組み合わせることによって成り立つわけだ。

このような状態を、
感情移入(の一種)という。

感情移入には様々な入り口があり、
このような入り方もある、
というだけに過ぎない。
最終的な理想的感情移入は、
「キャラクターの感じている深刻な危険とまあまあの危険が、
観客のそれと一致すること」だ。

私たちはドラえもんを見ているとき、
ドラえもんにとってのネズミの恐怖を味わうことはない。
一方、ドラえもん自身は、
地球が滅亡しようとしている危機にも、
「もしもボックスでなんとかなるわ」と、
まあまあの危険にしか感じていないかも知れない。

まあ、勿論ドラえもんは基本ギャグなので、
ドラえもんの弱点を笑うことが目的であり、
ドラえもんの恐怖を共有することにはない。

つまり、
感情移入しないものに対しては、
我々は冷徹だ。

他人の痛みなら百年でも耐えられる、というやつだ。



逆に、私たちは脚本を書き換えることで、
ドラえもんのネズミへの恐怖を、
感情移入して共有できる可能性がある。
そしてそれを笑うのび太やジャイアンに、
ドラえもんと同程度の憎しみを感じさせることも可能なわけだ。
(試しに書いてみなさい。
これは、感情移入をどうやって起こすかという研究だ。
カットや台詞の積み重ねだけで行けるだろうか?
それとも他のシーンでエピソードを作らないと無理か?)

たとえば北海道にはゴキブリがいないので、
東京の人の恐怖や憎しみを理解できないという。
理解させるような場面や感情移入を書けるだろうか?



もし感情移入がうまく行けば、
たとえば、
「家賃が払えずピンチ」みたいな、
世間にとってはまあまあの危険、とるに足らない危険でも、
そのキャラクターにとっては深刻な危険だとすると、
私たちは、
世界の終わりくらいの絶望と恐怖を感じることができ、
そのキャラクターのもがきや行動や発言に対して、
我がことのように、世界が救われるかどうか一喜一憂できるはずである。


危険は主観だ。
そのキャラクター主観の世界の見え方に、
私たちは観客が同じように主観的に感じるのを、
感情移入という。

これを三人称型でやるのが、映画の面白いところだ。
小説は一人称でやることが多いのは、
わたしや俺の気持ちがそのまま書いてあって、
主観的感情世界を共有しやすいからである。
三人称ではそれができない。
もっとも、一人称でどれだけ説明したって、
その感情と読み手の感情が一致しない、
滑る例もたくさんあるだろう。


それは、まあまあの危険か?
深刻な危険か?
それは、観客にとっての、
まあまあの危険か?深刻な危険か?
感じて、コントロールしよう。

一致させれば感情移入や生々しさを、
一致させなければ他人事になる。
(他人事だから笑える、ギャグの可能性もある)
posted by おおおかとしひこ at 12:20| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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