ストーリーに無知な人を騙す言葉があったので。
あなたの持ち物にストーリーがある、とか、
この万年筆にはストーリーがある、とか、
「ただのモノ」に対して、
「ストーリーがある」として、買わせる商法がある。
「○○マンションは、あなたのストーリーだ」みたいな論法。
それはストーリーじゃない。
「ストーリー的ななにか」でしかなく、
ストーリーに必要な条件を満たしていない。
それはストーリーの種であり、
ストーリーそのものではない。
片想いがラブストーリーでないのと同様に、
それはストーリーじゃない。
それは、精々、「設定」に過ぎない。
たとえば、
「この万年筆にはストーリーがある」としてみよう。
父親から譲られた万年筆で、
ドイツの職人が作ったもので、
実は父がドイツ出張で買ったもので、
その時の店員さんが母。
みたいなことにしてみようか。
わざとドラマチックなテンプレにしてみた。
こうすると、この万年筆にはストーリーがある、
ような気がする。
しかしこれはストーリーじゃない。
ストーリーには、
目的と行動と結末が必要だ。
主人公があることをしようとして、
結局それがどうなったか、
その顛末がストーリーだ。
万年筆の場合、
主人公が父だとしたら、
父にあったことの時系列の記録でしかなく、
ドイツ出張も万年筆購入も店員さんとの出会いも、
因果関係のない、偶然である。
勿論、その偶然の連鎖が一本の筋のように見えるから、
それがストーリーっぽく感じるのだ。
運命のように感じるわけだ。
しかしこれはストーリーではない。
ストーリーとは、
目的を持った行動が、
最終的な結末に対して、
どのような連鎖をたどったか、
ということだからだ。
それは必然的因果関係で一本の線になっていて、
偶然の入る余地はない。
偶然勝利したりタナボタでラッキーを拾うのは、
ストーリーを作る上で厳しく禁止されている。
その極端なものがデウスエクスマキナであり、
こんなの中世の演劇の時代から言われていることだ。
これは主人公が観客ではない、
三人称文学ゆえのルールである。
自分にラッキーが起こると嬉しいが、
他人がラッキーを拾うと腹立つという、
ダブルスタンダード心理に根差している。
せっかく苦労して因果関係を進めてきたのに、
ラストでラッキーでひっくり返されたら、
それまでのこと全否定になる。
つまり、運命はストーリーではない。
運命は偶然であり、
ストーリーは必然だ。
もっとも、偶然が必然であるように感じることを、
運命というのかも知れないが。
万年筆の例は、
目的もなく、
必然もなく、
論理的因果関係の連鎖もない、
ただの現実の記録である。
だから、ドキュメントはあるかもしれない。
しかしそれはストーリーではない。
ストーリーは、ドキュメントではない。
現実における不可解や理不尽や偶然を、
意図的に廃して、
世界が論理や因果関係で把握できるように、
整理し直したものがストーリーだ。
だから、ストーリーは現実をデフォルメするのだ。
(ここのところを、「エキストランド」は、
致命的に理解していない。
ストーリーである所のブラックコメディに、
ドキュメントである所のリアリティーを挿入している。
フィクションの中にリアルを持ち込むと、冷めるのだ。
オイオイ、今架空の世界で遊んでるのに、
リアルを持ち込むんじゃねえよと)
デフォルメとは、
あるものの長所や短所を極端にして分かりやすくすることだ。
黒人の似顔絵を描くときに、
唇を分厚く描くのはデフォルメだ。
それが短所だと感じたから黒人は怒ったのだろう。
長所だと感じれば強調なのにね。
あるいは、因果関係を極端にして分かりやすくすることだ。
たとえば、努力すれば報われる、のように。
現実では100%の因果関係がないことでも、
デフォルメによって因果関係を強調することが出来るわけだ。
で、そもそもストーリーでは、
何のためにこのデフォルメをするかというと、
テーマの為なのだ。
ある、理解が出来る、架空の世界を構築して、
そこで、目的から結末までの、
論理的因果関係の一本の筋を描くことで、
「このストーリーは結局こういうことを言っている」
ということが浮き出やすいからである。
現実の不可解で理不尽なカオスを写したとしても、
「世界は理解できず理不尽だ」としかテーマに残らない。
しかし世界をデフォルメすることによって、
私たちは「世界はこのように理解できるかもしれない」
という仮説にたどり着くことが出来る。
その仮説が正しいかどうかは永遠に分からないが、
私たちの経験から、それは説得力があるかどうかを判定することは出来る。
つまり、妥当かどうかということは判断できる。
ストーリーは、テーマが確からしく、
かつ新しいことが条件で、
そのために、いかにデフォルメを効かせるか、
ということを競うジャンルである。
どういう因果関係が、そのテーマを言うために用意されているか、
を整えるジャンルである。
さて。
万年筆だろうがマンションだろうが、
「ストーリー的なもの」を匂わせるだけで、
「ストーリーそのもの」ではないことが分かっただろうか。
ドイツ出張と母との出会いと、
あなたがそれを譲り受けたことは、
なんの因果関係も繋がっていないし、
なんらかの、世界を理解する見方を与えてくれるものでもない。
あるとすると、
偶然の糸がここまで繋がってきたことであり、
それは運命かも知れない、
という、因果関係の理解とは真逆のものである。
だから、この万年筆にはストーリーがある、という言い方は間違いで、
この万年筆には運命がある、
という言い方ならOKだ。
もっとも、
時系列があればなんでもストーリー呼ばわりする、
乱暴な言葉の使い方なら、
万年筆にはストーリーがあるさ。
さて。
万年筆だろうが、マンションだろうが、
そこに秘められた偶然の時系列がある。
それを譲り受けて、
あなたがストーリーを紡ぐのだ、
と、購入者をストーリーの主人公のように見立てることで、
これはモノを売る論法だ。
○○、はじまる。みたいなコピーは常にそうだ。
そうか。ストーリーはこれからなのか。
じゃあ、
その万年筆やマンションの、
「これまでの偶然なる運命の連鎖」は、
設定だよね。
購入が、あなたのストーリーのカタリストで、
あなたには目的があって、
第一ターニングポイントで本格的に冒険にこぎだし、
ミッドポイントでかりそめの勝利をし、
ボトムポイントで暗黒に落ち、
第二ターニングポイントで最後の賭けに出て、
万年筆やマンションの設定が伏線になって何かがあり、
クライマックスで勝利して目的を達成し、
それが結局どういう意味だったのか、
意味が確定する。
それがあなたのストーリーだ。
なんだ、ストーリーはあなたに丸投げではないか。
○○にはストーリーがある。
よくあるこの論法は、
何も言っていない。
ストーリーの素になる設定はある。
しかしそれは一行目で、
あと何十行かはあなたがつくってね、
という丸振りを意味している。
こんなコピーに騙されるのは、
ストーリーとは何かを分かっていない、
ストーリーテラー以外である。
そして、それが殆どだから、
このキャッチコピーは機能するわけだ。
小説家や脚本家に、
そういう万年筆やマンションを売り付ければ、
目的がないとか、
因果関係がないとか、
我々に丸振りか、
と抗議するだろう。
めんどくさい客が来たなあと、売り子は思うだけだろうね。
ストーリーは、設定ではない。
その一言を理解するには、
残念ながらこれだけの議論をしなければならず、
しかも具体例を沢山知らなければならない。
なんとも、ストーリーというのは魔性である。
2017年11月25日
この記事へのコメント
コメントを書く