2017年11月25日

ストーリーにではなく、設定に燃える

たとえば必殺技を真似したりする。
たとえば主人公の悲惨な境遇に自分がなったら、と夢想する。

これらは設定に燃えている現象であり、
ストーリーに燃えている現象ではない。

しかしそれは、感情移入の一部である。


顔に惚れる。
ファッションに惚れる。
これらは好きになる入り口のひとつ
(全てではない)である。
これらは点であり、設定であり、
線でもストーリーでもない。

考え方に惚れる。
性格に惚れる。
これらも点であり、設定であり、
線でもストーリーでもない。

考え方や性格は、一種のシステムだが、
時間的変化をしないので、
時間に対して固定であり、
ゆえに時間的変化をする、線やストーリーではない。
複雑性や単純性ではなく、
時間的変化のありなしが線である。

好きなものとか嫌いなものとか、
出身とか、これまで生きてきた過去とか、
これらに惚れても、
まだ点や設定に惚れているだけだ。
線でもストーリーでもない。

線やストーリーに惚れるというのは、
それらが時間変化するときに惚れることをいう。

普段クールな性格なのが、
急に優しくなったり荒っぽくなったりするとき(ギャップ)や、
綺麗な顔が歪むときや、
普段とは違う服を着たときや、
違う考え方に出会って柔軟に対処したとき
(頑なに考えを変えないのは、大抵惚れる対象ではない)や、
過去に対して向き合い克服したとき、
つまり過去の解釈が変わったときなどだ。

あるいは、それらの変化を長いこと共有し、
最初とはまるで違った人になってしまったとしても、
その人そのものが好きなのだから、
それは好きである、
という状態になることが、
線やストーリーに惚れるという。



理由なく変化する人はいない。
何か理由があって、
その対応として変化した。
つまり、変化と理由はペアである。
線やストーリーに惚れ込むということは、
このペアを愛することに他ならない。

つまり関係性だ。

ところで、
関係性が好きなのは、男性より断然女性である。
これは遺伝子(による脳内ホルモン及びそれによる脳内構造の発達)
によるものだから、違うものとして先天的だ。
(後天的学習は可能であるとは思うが、
学習は一般的に苦痛を伴うため、わざわざ学習して後天的習得をするとは考えがたく、
従って人は安きに流れる、つまり生得的感覚しか信じない)

なので、
女はギャップが好き、
男は顔や設定が好き、
という現象になりがちである。


我々はストーリーテラーである。
時間的変化、つまり線を扱い、
線の良し悪しについて議論する。

しかし点の良さを議論していけないわけではない。
ギャラクティカマグナムはかっこいいし、
波動拳はかめはめ波のパクリだ。
あるいは妖怪人間ベムは、
人間になりたいのに人間から迫害される。
その設定に酔うことに非難はない。

問題は、
自分の語るストーリーに、線やストーリーが欠落し、
点だけの出落ちばかりになることだ。


ライダーキックはやったし、
筋肉バスターは真似しようとした。
かわいい子には恋をする。

しかしそれだけじゃ、ストーリーにはならない。


我々ストーリーテラーは、
線の良し悪しについて議論するのが本道だが、
点や設定について無知ではだめだ。
むしろ、
素晴らしい点や設定を次々に生み出す才能も必要で、
線やストーリーも生み出す才能も必要なだけのことだ。


燃える必殺技を作ってみよう。
どっぷり浸かる境遇設定を作ってみよう。
そこから素晴らしいストーリーになったら最高だ。
しかし大抵それらは出落ちで、
ストーリーに発展することは希だ。
(途中まで出来ても、ぐだることが多い。
それは、出落ちのパワーが切れる頃と一致する)

しかし点や設定を考える訓練は役に立つ。
線やストーリーを考えるときに、
それに都合のいい点や設定をひねり出す力に寄与するからだ。
うまくはまれば、
まるでその点や設定から、
そんなストーリーが瓢箪から駒のように出来たと、
皆に錯覚させることが可能だろう。

そしてプロの名作というものは、
大概がそうなっているから、
アマチュアは、
まず点や設定を真似して作ってみて、
そこから先を考えられずに挫折するんだけど。



点や設定に燃えよう。
それはストーリーテリングとは次元が異なる、
ということを理解していれば、
それはひとつの娯楽だ。
posted by おおおかとしひこ at 12:24| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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