僕は設定とストーリーを分けて考えている。
設定は動かないものであって、
ストーリーは動くものであると。
動くもの、ストーリーの原動力は、
登場人物の動機、
そして登場人物同士の動機の、異なり具合だ。
この動機はどこから来るのかというと、
ストーリーの発端からも来るし、
設定からも来るのである。
つまり、設定とストーリーを切り分けて考えようとするのだが、
根っこのところが繋がっていたりする。
これが、ストーリーと設定を混同しやすく、
いつまでたっても、
ストーリーを作った気になって設定だけしか作っていなかったりする、
原因ではないかと考える。
なぜその人はそのようなことをしようとするのか。
そういう立場や責任があるから。
元々そうしたいと思っていたから。
それらが動機のとき、
その動機は設定に属しているといえる。
一方、
何かに出会って目標が明確になったとか、
誰かの目的を知り目的を切り替えるとか、
動機が失せてしまうとか、
などは、
ストーリーに属するものだと言える。
両者の差異はなにかというと、
「ストーリー開始時点より、過去にあるかどうか」だ。
ストーリー開始時点より以前に動機があるなら、
それは設定だ。
開始以後にその動機が形成されれば、
それはストーリーに属する。
つまり、動機が出来上がってる状態でスタートか、
動機が出来上がるところから描くかの違いだ。
「がんばれ元気」は、
最初からボクシングチャンピオンになるのが動機だった。
一方、
「あしたのジョー」は、
どこへぶつけていいか分からない情熱が、
ボクシングという矛先を得た。
矢吹丈の目的はボクシングを極めることだろうが、
本当の動機は「真っ白に燃え付きたい」だった、
ということが、後半になってようやく明らかになる。
(これは原作者高森朝雄(梶原一騎の別名)の用意した場面ではなく、
作画のちばてつやが作ったシーンとして有名だ)
僕の好みは後者だ。
動機が言葉で現せない、なにか不定形のものがあって、
それが物語のなかで具体的な目標を得て、
それが実現することで、
動機が実現する、というタイプが好きだ。
つまり、動機≠目的のタイプの話だ。
それは遅くとも第一ターニングポイントまでに確定していなければならないのは、
以前議論した通りだ。
なぜ前者があまり好きでないかというと、
話が一直線で、深みを帯びないからだと思う。
ただチャンピオンになりたいです、
チャンピオンになりました、
という話は、浅い気がする。
それよりも、
言葉に出来ない動機がもやもやとあり、
異物や事件と出会うことで、
それが具体的な形を持つようになり、
それが実現することで、
動機が昇華される、
という方が深いと考える。
何故なら、その方が感情移入の待ちが深く、
つまりは多くの人が感情移入しやすく、
カタルシス(代償行為による昇華、
つまり主人公の具体的目標の達成を見ることで、
主人公と同様に自分が何かをなし得たと全能感を得ること)
が深いような気がするからである。
ボクシングのチャンピオンになりたいんです、
はいなりました!は、カタルシスがないと思う。
そこに、「なぜ?」がないからだ。
なぜボクシングのチャンピオンになりたいのか?
それはスタート時点から決まっているから。
ああそうですか、設定ならしょうがないか、
となり、より深く感情移入出来ないと僕は思う。
「強いって何ですか?」
と知りたい(動機)主人公が、
偶然ボクシングに出会い、
それに取り憑かれていく(目的)、
という「はじめの一歩」は、
だから抜群に面白かった。
(あくまで伊達リカルド戦までだろう。
宮田戦が流れ、クロノスなんてどうでもよく、
テーマを見失ったままついに失速を始めた)
その動機は設定から来るものか?
だったら、
ストーリーの序盤で、
何かに出会うことで(異物)、
それを曲げてやろう。
最初の動機、獲得した動機のふたつがあり、
それらがクライマックスでアウフヘーベンするはずだ。
しかし、ストーリー上で0から動機を得ていては、
その主人公は誰でも良かったことになる。
じゃあ、最初に(別の)動機を持っていると、
逆算として面白くなるということだ。
バックストーリーは、つまりこの為に使うのだね。
その動機はどこから?
設定から来るし、
ストーリーからも来る。
動機や目的がひとつとも限らない。
複数あったり重ね合わせがあるときもあるよ。
2017年11月27日
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