尖ろう、ぶっ飛ぼう、誰もやってないことでオリジナリティーを。
若いときは誰もがそう思う。
いや、クリエイトの本質とは常にそれだ。
その力がない限り人類の進化はない。
つまりクリエイトとは、進化の原動力と等しい。
ところがだ。
ストーリーというものは、ただぶっ飛ぶだけではダメなのだ。
着地もしなければならない。
ここがストーリーというものが、生半可な才能では太刀打ち出来ないところだ。
というのは、
ストーリーは落ちで決まるからである。
落ちとはなにかというと、
「これまで語ってきた全てを、
うまくまとめること」である。
まとめるとはどういうことかというと、
「ある理屈でこれらを理解する」
ということだ。
つまり落ちがつくかつかないかは、
ストーリーに、理屈という一本の筋が通るか通らないかで決まる。
理屈というと想像が難しいが、
「これは結局こういうことで、
全体としては○○○ということを暗示している」
ということである。
○○○が、テーマと言われる部分である。
テーマに関しては別に山程論じているので、
ここでは深く立ち入らない。
意図した暗示でも意図せざる暗示でもどちらでもよく、
全体として○○○なる暗示になるとしたら、
全てが過不足なく冗長なくひきしまった、
つまり最小限の合理的な体系を有していることが、
完璧な作品、ということになる。
最終的に○○○になるんだったら、
あれは要らなかったね、
と無駄な贅肉があるのが、完璧でない作品だ。
(たとえば漫画「GANTZ」は不完全な作品である。
とくに、吸血鬼編は全くの要らないパートだ。
勿論長編漫画は映画シナリオと違って、
書きながら考える側面もあるため、
先を考えるための一時しのぎが出てくるのはやむを得ないところ。
にしても、黒歴史のように以後一度も語られないパートって…)
その辺りは何度も論じた来たから、
まあいいとしよう。
結局これは何だったのか、
と、終わったら人は総括したがる生き物である、
ということだけを覚えておくとよい。
人が死んだ。この人の人生を、思い出を語って総括する。
高校を卒業した。高校三年間とは何だったかを総括する。
会社をやめた。部活をやめた。
向いてなかった、他にやりたいことができたと総括する。
男女の別れ話。なぜ別れるのかを確定したい。
それは、一体なんだったのかを総括することだ。
就職活動がなぜ辛いかというと、
それまでの人生の総括を迫られ、全リセットを迫られるからだ。
つまりそれは死の恐怖に近いのだ。
出家とほとんど同じだ。
人は、ある一定の時間生きたことを、
総括したがる。
今年の十大ニュースとかね。今年の漢字もか。
これは、こういう意味があった、
と、あったことにしたい生き物だ。
それはなぜかというと、
「この過ごした時間は全く無駄であった」
と思いたくないからである。
実際のところ、
人生にはそんな無駄な時間がたくさんある。
クソゲーをやっている時間はまさにそれだ。
(素晴らしいゲームをやっている時間に意味があるかどうかは、
とりあえずここでは議論しない)
そんな時間ですら、
「ここで発散することで、
明日への活力になった」とか言い訳するんだぜ。
つまり、総括とは言い訳のことだ。
屁理屈だろうが、完璧で過不足ない理屈だろうが、
それは「理屈によって時間を理解する」
ということなのだ。
そしてストーリーとは、
落ちでこの落ち方を競うジャンルである。
どこに落ちるかというと、
総括に落ちる、ということだ。
物理的には、
ストーリーというものは、
ある事件が起きて主人公が参加し、
色々あって解決に至ることである。
それがなんの意味があったのか、
大抵は落ちで決まる。
落ちで総括に落ちるのだ。
ようやく本題。
ぶっ飛び、尖ることとは、
現状流布している、
様々な常識や総括からはみ出すことである。
旧来の価値観や総括が詰まらないからこそ、
新しい領域にぶっ飛ぶ。
だから冒険であり、楽しい。
その意気は素晴らしい。
新しい処女地を踏むことによって、
人類は進化してきた。
その遺伝子が、物語の処女地へ向かわせるのだ。
ぶっ飛んだ設定、
ぶっ飛んだキャラクター、
ぶっ飛んだ動機、
ぶっ飛んだ理屈、
ぶっ飛んだ展開、
ぶっ飛んだターニングポイント、
ぶっ飛んだサブストーリー、
ぶっ飛んだ焦点。
これらは全て歓迎である。
それが、きちんと落ちればね。
ストーリーは、ぶっ飛び、かつ総括出来なければならない。
狂気を理性で制御するとはこのことだ。
ぶっ飛ぶことは狂気で、
総括は理性でしなければならない。
ぶっ飛ばなければ完璧だが平凡で、
総括出来なければ破綻である。
ぶっ飛び、かつ理屈が通らなければならない。
新しい理屈が通る、新しいぶっ飛びを作らなければならない。
若者はぶっ飛びがちだ。
しかし結局理屈を通せなくて挫折する。
落ちで落としきれない。
老人は理屈は立つが、ぶっ飛べない。
常識の範囲内で済ませてしまい、冒険をしなくなる。
ストーリーとは、冒険でありかつ総括である。
だから難しく、価値がある。
僕は、ストーリーだけがこの形式であるとは考えていない。
たとえば発明なんかはこれと同じである。
iPhoneを何グラム軽くする、とかの研究は、
発明ではない。
ただの理詰めである。
iPhoneを新しく発明することが、真の発明だ。
あるいはビットコインも、発明だ。
(僕は詐偽の発明だと考えるが)
発明はパラダイムシフトを起こす。
それまでの人間の認識を、以前以後でまるで違うものに変えてしまう。
それが存在する前はどうしてたんだ?
なぜそれを思いつかなかったんだ?
というものが、パラダイムシフトだ。
たとえばケータイがそうだ。
もうケータイなしで仕事をできる人は減っているだろう。
ケータイなしでもみんな恋をして友情を育んでいた。
どうやって、かはそろそろ失伝しかかっている。
ウォークマンもそうだ。
モバイルになる前は、音楽は家か店でしか聞けなかった。
音楽は座って向き合うものだった。
パラダイムシフトこそが、
人類の至宝である。
ストーリーも同様であるべきだ。
ものすごいシフトしなくてもいい。
少しだけ私たちの考えや認識を新たにするものでも構わない。
ものすごくぶっ飛んで、ものすごく腹に落ちるのが理想だ。
しかしちょっと飛んで、深く総括できるものでもよい。
インスタ映えのような、
接触時間0秒でぶっ飛べるものが流行である。
だから今の時代は、
ぶっ飛びさえすれば勝ち、みたいになっている。
しかしストーリーでぶっ飛びさえすればそれでよい訳ではない。
ストーリーは着地しなければならない。
どこに?総括にだ。
ぶっ飛んだけどそれっきり、は、
ただのクソゲーだ。
ぶっ飛べ。そして見事に着地せよ。
ストーリーとは矛盾した競技である。
スキージャンプとかスノボの大会に似ている。
違いは、パラダイムシフトを起こすか起こさないか。
勿論スキージャンプやスノボで新技が編み出され、
パラダイムシフトが起こることもあるだろう。
選手は毎ジャンプそれをする義務はないが、
私たちは、
ストーリーを作るたびにそれをしなければならない。
2017年11月28日
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