思いついた!とオープニングから書き始めたって、
ラストにたどり着ける確率は低い。
実際のところ、
オープニングなんて最後に考える。
どうしてか。
ラストが決まらないと、オープニングなぞ書いても意味がないからだ。
ある物語を書くということは、
起承転結に従って、
順序よく、テンポよく、
面白く、時に裏切りながら、
完結したひとつの秩序を作るこということだ。
そもそもそれがきちんとできていない状態で、
いいオープニングを思いついたぞ!
と書き始めたって、
最後まで出来ていない。
それはただの白昼夢であり、
ただの思いつきだ。
勿論名オープニングの可能性もあるから、
メモしておくことに異論はない。
思いつきはアイデアノートにばんばん記録しなさい。
しかし、
思いつきのメモは執筆ではない、
ということを知っておくといい。
数ページ書けたって、
まだ執筆には至っていない。
執筆に至るには、
その後の展開すべてが決まっていなければならない。
とりわけ、決まっていなければならないのは、
ラストである。
ラストが決まってもいないのに書き始めるのは、
僕は愚の骨頂だと考えている。
もっとも、自信があり、アドリブがきき、
コントロールしきれると思った人は、
ばんばんやるといい。
僕はそれが下手なだけの話かも知れない。
あるいは、いつもはアドリブで書いているのだが、
どうにもうまくいかないという人は、
僕のやり方を参考にすればいいと考える。
僕は大まかな全貌が出来てきたら、
まずラストを考える。
それはなぜかというと、
「結局これまでのストーリーはどういうことだったのか」
がラストで決まるからだ。
色々あったけど、
主人公はこういう点で成長したとか、
○○の大事さ(逆に○○のよくなさ)に改めて気づくことが出来たとか、
全く新しいアイデア○○が有効であることを証明したとか、
そういうことだ。
ただの空騒ぎは、物語に値しない。
無意味は意味ではない。
完結しない意味は意味ではない。
物語に意味は必要か?
逆に、意味のないことを、人間は捉える能力がない。
人は風を感じることが出来るが、
それは心地よいとか美しいとかの意味を伴う。
センサが反応しているだけで意味を伴っていないものは、
そのセンサが反応しなくなったら消去される。
たとえば普段の会話は、そのようなもので、
特別な意味を持たないので忘れてしまう。
生まれてから今日までの、全ての日常会話を覚えている人はいない。
(脳障害やサヴァン症の人にはいるかも)
それは、意味がないからだ。
逆に好きな人との会話は、かなり覚えているだろう。
そこに意味があるからだ。
物語もそれと同じで、
スナックのように消費されて忘却されるか、
それとも特別な記憶として意味と共に記憶されるかだ。
それを分けるものは、
それが意味があったかどうかだと、
僕は考えている。
ストーリーというのは、
物理的には、
とある事件が起きて、主人公が解決するまでの、
時間的記録である。
(順序通りとか逐一かは問わない)
ただそれだけのことが、なんの意味があるか、
ということがストーリーの意味だ。
頭が混乱してきたら、
勧善懲悪を考えるとよい。
悪はよくない、正義はよい、
という意味をそのストーリーは持っている。
宗教説話は中世の物語で、
とある宗旨(一期一会、情けは人のためならず、因果応報、隣人愛)
を意味するために作られた。
今でも、ある種の価値(テーゼ)を表現するのにストーリーが使われる。
共和制民主主義は独裁帝国主義より素晴らしい、
などは、勧善懲悪ストーリーに乗せれば簡単に表現できる。
テーゼを正義に、アンチテーゼを悪に設定し、
勧善懲悪型のストーリーを作ればよい。
実は欧米型のストーリー構造とは、
これしかない。
これしかないというのも言い過ぎだけど、
テーゼとアンチテーゼとアウフヘーベン以外に、
欧米型のストーリー構造は有効な構造を持っていない、
と僕は考えている。
だから、ハリウッド映画ばかり見るとお腹一杯になる。
フランス映画や日本映画やアジア映画は、
必ずしもそのような構造を取らない。
しかし、逆に、意味をうまくストレートに表せない欠点も抱える。
なんだか含みが沢山あったけど、
モヤモヤするなあ、
というのは、
僕はストーリーとして不完全であると糾弾する。
だから、ハリウッド以外の何かを見たくて、
それ以外のものを見るのだが、
そこには有象無象のカオスが広がっている。
比較的当たりの多いのはイギリスだ。
知的レベルが保たれた、階級社会だからかも知れない。
日本は特殊で、
江戸時代以来の庶民識字率の高さから、
均等な知性が広がっている。
だから、日本の物語は独特の進化を遂げていると僕はおもう。
新しい意味の示し方に、
皆が挑戦しているような状況だと思う。
話がそれた。
ストーリーの大まかな全貌が出来てきたら、
ラストを考えるとよい。
それで、
このストーリーが結局どういうことだったのか、
確定するからだ。
ラストが確定するまでは、
ストーリーはどうとでも転がる。
どう転がるか分からないから、
どう確定するか分からないから、
あるいはこう確定するだろうと予想して、
それを確かめたいから、
人はラストまで見たいのである。
つまり人は、確認したいのだ。
そのストーリーの意味を。
ラストを決めずに書くことは、
意味を決めずにやることだ。
ラストを決めて書くと段取りになってしまい、
簡単に予測されてしまうから、
という人がいるけど、
それはただ下手なだけだと僕は思う。
そもそも意味を決めずに、
どうやって逆ふりや斜め上や意外性を計画するというのだ。
ストーリーはマジックだ。
人の目を逸らし、その間にネタを仕込む。
そこであっと言わせる。
その技術がないのにアドリブでやろうとしたら、
着地出来ないに決まってるではないか。
で。
全体の意味が決まってから、
はじめてそれに相応しいオープニングを考えるとよい。
それは、全体の意味を暗示する、
総まとめのような、しかし全貌を見せない、
かつツカミのあるキャッチーなオープニングになるはずだ。
勿論、メモしておいた思いつきの数々を、
そこに使うこともあるかもしれないが、
殆どのメモアイデアは使えない屑だ。
何故なら、その時点では全体が見えていなかったからだ。
象を描くときに、鼻や牙や耳や目から書くべきなのに、
肋や爪や毛から書いている、
ということがとても多いのである。
勿論これらは僕の経験則なので、
いつだって正確なオープニングから始めて、
見事なラストに着地できる人は、
全く無視して構わない。
どう始めるべき?
と考えることは、
つまり終わり方を考えること。
死ぬことを考えて生まれる人間はいないが、
物語とはそうだ。
だから魅力があるのかも知れない。
2017年11月29日
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