2017年11月29日

始まりについて考えることは、ラストについて考えること

思いついた!とオープニングから書き始めたって、
ラストにたどり着ける確率は低い。

実際のところ、
オープニングなんて最後に考える。
どうしてか。
ラストが決まらないと、オープニングなぞ書いても意味がないからだ。


ある物語を書くということは、
起承転結に従って、
順序よく、テンポよく、
面白く、時に裏切りながら、
完結したひとつの秩序を作るこということだ。

そもそもそれがきちんとできていない状態で、
いいオープニングを思いついたぞ!
と書き始めたって、
最後まで出来ていない。

それはただの白昼夢であり、
ただの思いつきだ。
勿論名オープニングの可能性もあるから、
メモしておくことに異論はない。
思いつきはアイデアノートにばんばん記録しなさい。

しかし、
思いつきのメモは執筆ではない、
ということを知っておくといい。
数ページ書けたって、
まだ執筆には至っていない。

執筆に至るには、
その後の展開すべてが決まっていなければならない。

とりわけ、決まっていなければならないのは、
ラストである。


ラストが決まってもいないのに書き始めるのは、
僕は愚の骨頂だと考えている。
もっとも、自信があり、アドリブがきき、
コントロールしきれると思った人は、
ばんばんやるといい。
僕はそれが下手なだけの話かも知れない。

あるいは、いつもはアドリブで書いているのだが、
どうにもうまくいかないという人は、
僕のやり方を参考にすればいいと考える。


僕は大まかな全貌が出来てきたら、
まずラストを考える。

それはなぜかというと、
「結局これまでのストーリーはどういうことだったのか」
がラストで決まるからだ。


色々あったけど、
主人公はこういう点で成長したとか、
○○の大事さ(逆に○○のよくなさ)に改めて気づくことが出来たとか、
全く新しいアイデア○○が有効であることを証明したとか、
そういうことだ。

ただの空騒ぎは、物語に値しない。
無意味は意味ではない。
完結しない意味は意味ではない。

物語に意味は必要か?
逆に、意味のないことを、人間は捉える能力がない。
人は風を感じることが出来るが、
それは心地よいとか美しいとかの意味を伴う。
センサが反応しているだけで意味を伴っていないものは、
そのセンサが反応しなくなったら消去される。

たとえば普段の会話は、そのようなもので、
特別な意味を持たないので忘れてしまう。
生まれてから今日までの、全ての日常会話を覚えている人はいない。
(脳障害やサヴァン症の人にはいるかも)
それは、意味がないからだ。
逆に好きな人との会話は、かなり覚えているだろう。
そこに意味があるからだ。

物語もそれと同じで、
スナックのように消費されて忘却されるか、
それとも特別な記憶として意味と共に記憶されるかだ。
それを分けるものは、
それが意味があったかどうかだと、
僕は考えている。


ストーリーというのは、
物理的には、
とある事件が起きて、主人公が解決するまでの、
時間的記録である。
(順序通りとか逐一かは問わない)

ただそれだけのことが、なんの意味があるか、
ということがストーリーの意味だ。

頭が混乱してきたら、
勧善懲悪を考えるとよい。
悪はよくない、正義はよい、
という意味をそのストーリーは持っている。
宗教説話は中世の物語で、
とある宗旨(一期一会、情けは人のためならず、因果応報、隣人愛)
を意味するために作られた。
今でも、ある種の価値(テーゼ)を表現するのにストーリーが使われる。
共和制民主主義は独裁帝国主義より素晴らしい、
などは、勧善懲悪ストーリーに乗せれば簡単に表現できる。

テーゼを正義に、アンチテーゼを悪に設定し、
勧善懲悪型のストーリーを作ればよい。

実は欧米型のストーリー構造とは、
これしかない。
これしかないというのも言い過ぎだけど、
テーゼとアンチテーゼとアウフヘーベン以外に、
欧米型のストーリー構造は有効な構造を持っていない、
と僕は考えている。
だから、ハリウッド映画ばかり見るとお腹一杯になる。

フランス映画や日本映画やアジア映画は、
必ずしもそのような構造を取らない。
しかし、逆に、意味をうまくストレートに表せない欠点も抱える。

なんだか含みが沢山あったけど、
モヤモヤするなあ、
というのは、
僕はストーリーとして不完全であると糾弾する。

だから、ハリウッド以外の何かを見たくて、
それ以外のものを見るのだが、
そこには有象無象のカオスが広がっている。

比較的当たりの多いのはイギリスだ。
知的レベルが保たれた、階級社会だからかも知れない。

日本は特殊で、
江戸時代以来の庶民識字率の高さから、
均等な知性が広がっている。
だから、日本の物語は独特の進化を遂げていると僕はおもう。
新しい意味の示し方に、
皆が挑戦しているような状況だと思う。


話がそれた。

ストーリーの大まかな全貌が出来てきたら、
ラストを考えるとよい。
それで、
このストーリーが結局どういうことだったのか、
確定するからだ。

ラストが確定するまでは、
ストーリーはどうとでも転がる。
どう転がるか分からないから、
どう確定するか分からないから、
あるいはこう確定するだろうと予想して、
それを確かめたいから、
人はラストまで見たいのである。
つまり人は、確認したいのだ。
そのストーリーの意味を。


ラストを決めずに書くことは、
意味を決めずにやることだ。
ラストを決めて書くと段取りになってしまい、
簡単に予測されてしまうから、
という人がいるけど、
それはただ下手なだけだと僕は思う。
そもそも意味を決めずに、
どうやって逆ふりや斜め上や意外性を計画するというのだ。

ストーリーはマジックだ。
人の目を逸らし、その間にネタを仕込む。
そこであっと言わせる。
その技術がないのにアドリブでやろうとしたら、
着地出来ないに決まってるではないか。


で。

全体の意味が決まってから、
はじめてそれに相応しいオープニングを考えるとよい。
それは、全体の意味を暗示する、
総まとめのような、しかし全貌を見せない、
かつツカミのあるキャッチーなオープニングになるはずだ。

勿論、メモしておいた思いつきの数々を、
そこに使うこともあるかもしれないが、
殆どのメモアイデアは使えない屑だ。
何故なら、その時点では全体が見えていなかったからだ。

象を描くときに、鼻や牙や耳や目から書くべきなのに、
肋や爪や毛から書いている、
ということがとても多いのである。


勿論これらは僕の経験則なので、
いつだって正確なオープニングから始めて、
見事なラストに着地できる人は、
全く無視して構わない。



どう始めるべき?
と考えることは、
つまり終わり方を考えること。

死ぬことを考えて生まれる人間はいないが、
物語とはそうだ。
だから魅力があるのかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 13:29| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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