実写は、漫画やアニメとは違う。
CG以前の映像の常識はそうだった。
実写は、今私たちが住むこの世界で、
歴史や文脈が実在があって、
漫画やアニメは特殊な架空の世界である、
というのが常識だった。
CGがそれを壊した。
着ぐるみやミニチュアによる、「見立て」は崩れ、
映像としてはリアルだ、というところまで来た。
このときに実写と、架空の世界の垣根が、
壊れた気がする。
「日常系アニメ」というのも、逆に現れた。
CGの誕生によって、
実写と漫画やアニメが区別の必要がなくなったのかも知れない。
しかし、だからこそ、
実写と漫画やアニメとは何が違うのか、
という議論がなされず、混同が起こったままである。
つまりは、ハガレンのコスプレ写真に笑うしかないわけだ。
CGによって、
実写と漫画やアニメの境界を崩したのは、
マトリックスや、Xメンスパイダーマンあたりかな。
まるで漫画の世界が、
CGによって実写でも可能になるんだ、
そう思わせるに十分な、
映画史に残る出来であった。
でも、それは大きな誤解を生む。
実のところ、
マトリックスはストーリーが面白かった。
「この世界は偽物かも知れず、
本当の世界は別にある」
というテーマは、実写でも通用するものだった。
ただ、ビジュアルが出来なかっただけのこと。
ビジュアルが漫画やアニメに似ただけで、
実写でも出来る話だ。
たとえば転校生の話とか、転職の話とか、
理系から文転する話とか、留学の話とか、
あるいは在日の話とか。
属する社会に違和感を感じ、
自分が本当に力を発揮できる別の世界。
それはユートピア幻想として、
物凄く昔からある話である。
宗教とは、ひょっとするとそういうことかもね。
自分が属する社会に違和感を感じる人々を、
「本当の世界」に束ねるための。
Xメンはマイノリティ迫害と人権の話だった。
障害者や性同一障害者、黒人の話でも、
出来るストーリーであった。
監督のブライアンシンガーはマイノリティ(にしてはメジャーな)
ゲイであったことが影響しているかも知れない。
スパイダーマン(ライミ版)は言うまでもなく、
「大いなる力には大いなる責任が伴う」がテーマだ。
これも同様、実写でも出来る。
銃を持ってしまった男の話、
権力を持った政治家や刑事や弁護士や、科学者の話
などである。
つまり、
これらの話は、
実写でも出来るストーリーなのだが、
漫画やアニメのようなビジュアルで、
戯画化して楽しむ、ということを実現した。
それは、初期のSFと同じだ。
実写でも出来る話を、異化して目の前に形として見せるために、
SFの方法論はある。
たとえば宇宙人がこの社会に馴染まない、
みたいなストーリーは移民の話の戯画化である。
超能力者の話は、有能な人の孤独を描くことの戯画化だ。
(全ての人は自分の有能さが社会で生かされていないと、
たいてい不満を感じているから、
これは自分探しのストーリーになってゆく)
初期のSFに限らず、
そもそもファンタジーはそういうものだ。
幽霊やドラゴンや魔法を、モチーフとしては扱うものの、
幽霊現象の解明や、
ドラゴンの生態学や、
魔法の理論について書くのではない。
現実社会、実写のここの世界でも出来る話を、
何で戯画化するかの違いである。
少年漫画は、
実はその戯画化を、恐らく必要としていない。
単に超能力がカッコイイ、
幽霊が面白い、
バトルがカッケー、
ドラゴンがすごい、
それだけで話が進む。
僕がドラマ風魔、即ち実写による表現をしようとしたとき、
少年漫画の漫画的要素、
つまり忍者や必殺技やバトルやサイキックや聖剣の、
何が面白いのか、
実は全く分からなかった。
勿論リアルタイムでは夢中になった。
死鏡剣カッケーとか、風林火山カッケーとか、
なにいとかに夢中だった。
聖闘士星矢だって、阿修羅の門やんけ、
あと必殺技違いやんけ、とか思いながら、
クロスのデザインのカッコヨサに惹かれて読んでいた。
いや、実際のところ、
「読んで」いたのではなく、
「見て」いたという表現が正しいかも知れない。
つまり、ビジュアルは見るものであり、
読むものではない。
漫画が紙メディアであることと強く関係している。
読むということは時間変化を楽しむこと。
見るということは、時間変化しないビジュアルを楽しむこと。
(同様にビジュアルを楽しむアイドルには、「劣化」が存在する。
アイドルは見るものであり読むものではない)
僕は、実写風魔をやるとき、
車田正美はデザイナーだと断言した。
つまり、紙メディアの人であり、
映像の人ではないと。
見るものを作る人であり、
読むものを作る人ではないと。
車田正美は、しかしながら、
読むことにも独自のデザインを施した。
なにい!?あ、あれは!?とか、
ここには○○が眠っているのよ、とか、
5対5のトーナメントとか、
ここは俺に任せて先に行けとか、
そういう車田的様式美によるストーリーテリングだ。
これにより、
単に見るだけのビジュアルが、
読むストーリーへ変貌していく。
車田がパイオニアとして切り開いたこれらのストーリーパターンを、
以後ジャンプ漫画は繰り返し踏襲していく。
つまり、車田的ストーリーパーツの組み合わせと、
新規ビジュアルの組み合わせで、
殆どの少年漫画は出来上がる、
と言っても過言ではない。
だから、少年漫画なんて殆ど同じストーリーで、
読むには値しないんだ。
一個すげえの読んだら、
あとは全部ビジュアル違いでしかないんだ。
そう感じた人は少年漫画を卒業し、
見るだけの漫画から、
読む漫画、青年漫画、小説、映画に移行していく。
(ワンピース初期が面白かったのは、
そのような車田的ストーリーパーツの呪縛から逃れ、
ドラマ的なストーリーを盛り込んだところ。
仲間が集まるまでは、少なくとも面白かった。
またデスノートが面白かったのは、
少年漫画のセオリーを無視した、読む漫画だったからだ)
さて、実写風魔に戻るならば、
その見るだけの漫画を、
どう実写世界に、読むべきものに翻案するか、
ということに最大の苦労があったわけだ。
だって0なんだから。
0から立ち上げた読むべきストーリーを、
風魔ビジュアルや、バトルの順番に、
溶け込むように作らないといけないんだから。
そこに違和感があれば、
風魔わかってんのかよ、となったはずだ。
(たとえば人気キャラ麗羅が死なないとしたら、
それは風魔の死生観を覆し、
人気狙いと蔑まれたことだろう)
僕はXメンやスパイダーマンの原作に触れてないので、
ここからは推測だが、
「超能力を得たスーパーヒーローが、
異能を悪に使うヴィランと闘い勝利する」
という、勧善懲悪程度のストーリーで、
見るだけのビジュアルから、
マイノリティの解放や大いなる責任の話を、
実写風魔のように、
上手にでっち上げたのではないか?
つまり、
漫画やアニメの実写化に求められるのは、
ここだと僕は思うのだ。
ハガレンの、読むべきストーリーってあったっけ。
母の錬成(永遠の命に纏わるテーマ?)って、
なんかうやむやになってたっけ。
その辺が一回しか読んでないので覚えてない。
弟の体を取り戻す話とか、
つまり、命とは何かみたいなことに、
ストーリーを読むべきものにしなければならない、
と僕は予想する。
しかしながら、
発表されたものは、
コスプレして公園を歩き、
後ろにパトカーが写っているやつだ。
世界ビジュアルを同じにするかどうかだけを議論し、
ストーリーについて、
読むべきものに値するか、
全く議論していない。
それが今の実写化ビジネスの癌だ。
映画は「見る」というから、
ビジュアルだけ見て喜ぶ子供に見せときゃいいんだ。
それを嫌って「観る」表記をする人もいる。
見ると読むを掛け合わせた感覚だろう。
Xメンやスパイダーマンやマトリックスのヒットは、
実写世界でも成立する、
読むべきストーリーを中心に、
新規ビジュアルをぶら下げたことにある。
大人でも子供でも喜べるものになっていた。
ハガレンは、多分子供が見て喜ぶだけだろう。
どれだけ類似爆死があっただろう?
デビルマン、テラフォーマーズ、海猿、ルパン三世、ガッチャマン、ヤマト。
バカばかりか。
CGでビジュアル作っておしまいのビジネスではないか。
だから芸能人コスプレ大会って言われるのさ。
年末隠し芸でやってろ。
大人が観るに値する映画を作ったらどうだ?
それとも、日本の大人は、死にかけているのだろうか?
2017年12月03日
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