2017年12月01日

諱(いみな)という文化

アジア全般にある文化。
西洋にも同様の習慣がある。

現代日本では根付いてないが、
HN(って言い方はまだあるのかな。
ネットで名乗ってるペンネームみたいなやつ)
が近いのかな。芸名と本名もそうか。


つまり、
人には本名(諱)と、
通称(字=あざな)があるということ。

そして世間一般には通称で通して、
本名を隠すということ。
(隠さない文化もあるけど、
人を本名で呼んではいけない、
という文化のほうが多い)

これは、おそらく人間の本質だ。
つまり、
「外向きの顔と、ほんとうの顔が違う」ということ。

ほんとうの顔を知られてはならない、
あるいはそこに到達するのは普通失礼で、
余程でない限りそこに触れない、
ということ。

諱と字は小説的だけど、
演劇や映画では、
しばしばこれは仮面で表現される。

シャイナさんが仮面を被っていて、
素顔を見られたら結婚、
みたいなルールは、全くこれと同じである。


仮面を使ったストーリーの場合、
仮面を被った姿がほんとうの自分で、
現在の自分はほんとうの自分じゃない、
というモチーフが頻繁にある。

つまり、
誰もが現在の自分を、ほんとうの自分だと思えていない、
という前提がみんなにあるわけだ。
だからもしほんとうの自分を世間に、
自分だと悟られないように示すことができたら、
という架空が、強烈な魅力があるのだ。

変身願望、という四文字熟語で言われることもある。

女の場合、身近なメイクアップや衣装チェンジがあるので、
大抵は「変身」がモチーフになる。
で、何故か魔法使いになるのが伝統だ。

男の場合は仮面ヒーローになるのが多いよね。



現在の自分を変えたいのではなく、
現在のほんとうの自分じゃない自分はキープしつつ、
それでも別の時間帯で、
ほんとうの自分として生きたい、
という二重性があることに気を付けよう。

この二重性こそ、
私たちが普段感じている、
ほんとうの私を知ってほしいが、
ほんとうに知られるのはやっぱ嫌だ、
みたいなアンビバレントなこころに近いのだ。

だから変身願望ものは、
変身ありなしの、二重生活を基本とする。

これは、全く諱と字の関係と同じだ。

ほんとうの名前を知ることは、
余程でないと出来ない。神や仏しか知らない。
仮の名前で生きていて、
それはこの世に受けた生は借り物に過ぎない、
という一種の解脱的宗教観も、その文化の中には入っている。
しかし諱と字の、
わざわざ二重性を作らないと安心できないということは、
人間はどこまでいっても、
「ほんとうの私は理解されない」
という根本的な不安を抱えているのではないかと僕は考える。


なんだか雑談のようになってしまった。
何かのネタにどうぞ。

仮面ものは一回書く経験をしたほうがいいよ。
具体的な仮面がなくてもよくて、
つまり、
ネット番長とか、趣味の世界を隠している会社員とか、
家庭と不倫とか、江戸時代のキリスト教徒とか、
現代に生きる忍びとか、
二重生活をしている人を主人公にするといい。

人には本当の面と、
仮の面がある。

そしてそれは時に入れ替わることもあるし、
仮面が暴かれることもあるし、
本当の正体を勇気を持って示すこともある。

スパイダーマン2(ライミ版)の、
正体をさらすところが僕は大好きだ。
ヒーローが仮面を取る瞬間は一番のドラマだ。
それは、「ほんとうの自分をさらけ出す」ことだからだ。
ウルトラセブン最終回の、
アンヌに「僕はウルトラセブンだ」というシーンも最高だなあ。


主人公には表向きの顔と、ほんとうの顔がある。
普通に考えれば、公私ということ。
ネット時代になって、
公私を数パターン使い分けてる人もいるだろう。
複アカがそれだよね。
仮面は一つでよかったのに、三つも四つもあるかも知れない。
仮面を被ってるのに、それがガラスだというストーリーもある。

仮面、真の名前、本性、変身、正体バレ、
誤解されている自分、ほんとうの自分。
これらは全て同一の物語だ。
posted by おおおかとしひこ at 02:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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