ニコラ配列(親指シフト)を始めた人でよく聞くのが、
「今までは頭の中でローマ字を組み立てなくてはならなくて、
その常駐ソフトに頭をとられていたから、
カナ入力をするとそれが必要なく、
思ったことがそのまま出て来る」
みたいなことがあって、
僕はその状態がどういうことか知りたくて、
カナ入力を実践研究している。
しかしそれは詭弁ではないか? というのが、
今回の主張である。
というのも、
僕はそろそろ下駄配列で、
ぽつぽつと文章を書けるくらいにはマスターしてきた。
しかしその段階に来ると気づくのである。
「運指の組み立てをしないと、速く打てない」ということに。
ある音を書こうとして、
対応するキーを打つ。
これが配列をマスターするということではない。
実際は、
「複数の文字からなる言葉を打とうとして、
指の動かす導線を発動する」
ということが必要だ。
qwertyという言葉を打とうと思って、
qの次にwを打ち、次にeを打ち、という人はいない。
「qから次々に一個一個右に流す」
という打ち方が、言葉を打つということだ。
だからキー一個一個なんてどうでもよくて、
「常用語において、一連の指の動きと言葉が対応する」
ことが、その配列をマスターしたということだと思う。
qwertyローマ字とカタナ式は僕はそこまで来ていて、
下駄配列については道半ばである。
行ける言葉と行けない言葉の差がまだ大きい。
で、気づいたのだが、
ローマ字変換に常駐ソフトを割かなくていいが、
「これの次にあれを打たないといけないから、
このキーを押したあとにこういう動きをしよう」
という常駐ソフトに頭のリソースが割かれている、
ということだ。
話がややこしくなるため、
「キーを一個一個覚える」ということを配指を覚える、
「キーの流れを言葉に対応させる」を運指を覚える、
という言葉で使い分けることにする。
配指を覚えることが配列のマスターではない。
運指を覚えることが配列のマスターだ。
つまり、ローマ字を覚えるということは、
配指でなく運指まで覚えることがマスターだ。
同様に、カナ入力を覚えるということは、
配指でなく運指まで覚えることがマスターだ。
配指は丸暗記しようと思えば可能だけど、
運指は運動記憶だから、
なんども動いて覚えるしかない。
それがブラインドタッチである。
(だからブラインドタッチを覚えるのはしんどくて、
次にもう一個覚えることを躊躇させる)
で、ここからが僕の感想なのだが、
ずっとローマ字で来た僕は、
カナ入力の運指パターンの多さに辟易し始めている。
ローマ字のように応用が効かない感じ。
ある言葉の流れのように他の言葉を打てない。
運指に類似がないのだ。
(この一部、活用についてはすでに議論した)
これは、実はカナ入力の大きな欠点ではないかと考える。
で、本題。
「頭の中のローマ字変換に時間がかかる」
という人は、ローマ字を運指までマスターしてなかった人なんじゃないか。
これに反論する人たちは、
「慣れたら変換せず、勝手に指が動く」と、無意識になると言っていた。
この議論は、運指までマスターしてない人vsマスターした人、
という、そもそものすれ違いであったのではないだろうか。
で、
「親指シフトなどカナ入力は脳内ローマ字変換がないぶん楽」
なんて言っている人は、
配指だけはマスターしても、運指までマスターしきっていない、
まだ学びはじめの人の感想なんじゃないか、
というのが本題だ。
つまり、
配指マスターと運指マスターの間には遠い距離があって、
ローマ字配指マスターが、
カナ配指マスターにクラスチェンジしたときだけ、
「脳内ローマ字変換がなくて楽」というのではないか?
僕は運指マスターまでがマスターだと考えていて、
まだ下駄配列の運指をマスターしきれないから、
「カナ入力は運指の組み合わせ爆発がおおすぎ」
と文句をいうのではないだろうか。
もっというと、
言葉を発するときに、
塊で発する人と、
逐次で発する人がいて、
僕は塊でとらえている、というだけのことかもしれない。
たとえば、
よく聞き間違いをする人がいる。
僕は文脈という塊で聞いているから、
会話の流れから自動符号訂正をしている。
勿論これができるのは母国語だけで、
英語ではこれができない。
だから英語では逐次の人になる。
逐次で言葉を聞いている人は、
言葉をよく聞き間違うのではないか?
そういう人は、運指なんてよくわからなくて、
配指が言葉だと思っているのではないか?
あくまで仮説だけど。
僕は手書きで文字を書く時に、
ほぼ続け文字で書く。
筆を繋げないにしても、
ペン先は一連の曲線を描く。
その始点は塊の始点で、終点は塊の終点だ。
たとえば「終点」までを塊にするときもあるし、
「終点は塊の終点だ。」までを塊にするときもある。
その前までの言葉があれば、「」内は省略できる言葉だからだ。
つまり行間に属するところは、速く書く。
(そして創作とは、行間を読み合う楽しみだ)
言葉は、同じ濃度をもっていない。
どの音も一様分布をしていない。
大事なところは濃くて、
どうでもいいところは薄い。
僕は、濃いところはゆっくり正確に書きたいし、
薄いところはばっと飛ばしたい。
一文字の重さが、均等ではない。
逐次的な人は、おそらく一文字が均等的なのだろう。
飛鳥配列の人が「倍速打鍵」という言葉で、
文末は速くなるということを書いていたけど、
そんなの当たり前で、
一文字あたりの存在密度が違うのだから当然ではないか。
それが言葉だと僕は思っている。
これには個人差がありそうだ。
僕はそうだ、というだけにすぎない。
打鍵において、ロールオーバー、アルペジオは、
そういう薄い部分を一気に打つ、ということをしたい。
だから二重母音や拗音撥音促音長音は、
カタナ式ではそうしている。
いくらでもアルペジオで速く打てる。
(こないだ映像から測定したら、1/30秒より速いところもあった)
下駄配列ではそれはできないだろう。
他に出来るカナ配列があれば僕はそれをやりたいが、
原理的に、塊が大きくなればなるほど、
カナ同士の連接の多さが爆発的に増加するから、
行段系ローマ字のほうが僕にとっては性に合うのかもしれない。
これはカナ入力をマスターする途中での感想だから、
運指をマスターしてしまえば、
たいしたことなかったよ、
といえるのかもしれない。
少なくとも、
「親指シフトは頭の中でローマ字変換する必要がないから、
思考が素直に出て来る」というのは、
嘘だということがわかった。
分かったうえで宣伝に使っているのなら、
それは騙しであり、せいぜい初心者を取り込みたいがための、
詭弁だと僕は思う。
日本語は、子音と母音がある言語で、
一文字でいうのではない。
五段活用など活用形を考えればあきらかだ。
拗音や「いう」もほとんど一音だ。
文字は発音の代わりでしかない。
また、文字は文字だけで書き言葉になった。
言文一致は、21世紀の今でも、実現できていない。
2017年12月01日
この記事へのコメント
コメントを書く