2017年12月01日

【カタナ式】頭の中でローマ字変換する手間、という詭弁

ニコラ配列(親指シフト)を始めた人でよく聞くのが、
「今までは頭の中でローマ字を組み立てなくてはならなくて、
その常駐ソフトに頭をとられていたから、
カナ入力をするとそれが必要なく、
思ったことがそのまま出て来る」
みたいなことがあって、
僕はその状態がどういうことか知りたくて、
カナ入力を実践研究している。
しかしそれは詭弁ではないか? というのが、
今回の主張である。


というのも、
僕はそろそろ下駄配列で、
ぽつぽつと文章を書けるくらいにはマスターしてきた。
しかしその段階に来ると気づくのである。
「運指の組み立てをしないと、速く打てない」ということに。

ある音を書こうとして、
対応するキーを打つ。
これが配列をマスターするということではない。
実際は、
「複数の文字からなる言葉を打とうとして、
指の動かす導線を発動する」
ということが必要だ。
qwertyという言葉を打とうと思って、
qの次にwを打ち、次にeを打ち、という人はいない。
「qから次々に一個一個右に流す」
という打ち方が、言葉を打つということだ。

だからキー一個一個なんてどうでもよくて、
「常用語において、一連の指の動きと言葉が対応する」
ことが、その配列をマスターしたということだと思う。
qwertyローマ字とカタナ式は僕はそこまで来ていて、
下駄配列については道半ばである。
行ける言葉と行けない言葉の差がまだ大きい。

で、気づいたのだが、
ローマ字変換に常駐ソフトを割かなくていいが、
「これの次にあれを打たないといけないから、
このキーを押したあとにこういう動きをしよう」
という常駐ソフトに頭のリソースが割かれている、
ということだ。

話がややこしくなるため、
「キーを一個一個覚える」ということを配指を覚える、
「キーの流れを言葉に対応させる」を運指を覚える、
という言葉で使い分けることにする。

配指を覚えることが配列のマスターではない。
運指を覚えることが配列のマスターだ。

つまり、ローマ字を覚えるということは、
配指でなく運指まで覚えることがマスターだ。
同様に、カナ入力を覚えるということは、
配指でなく運指まで覚えることがマスターだ。

配指は丸暗記しようと思えば可能だけど、
運指は運動記憶だから、
なんども動いて覚えるしかない。
それがブラインドタッチである。
(だからブラインドタッチを覚えるのはしんどくて、
次にもう一個覚えることを躊躇させる)


で、ここからが僕の感想なのだが、
ずっとローマ字で来た僕は、
カナ入力の運指パターンの多さに辟易し始めている。
ローマ字のように応用が効かない感じ。
ある言葉の流れのように他の言葉を打てない。
運指に類似がないのだ。
(この一部、活用についてはすでに議論した)
これは、実はカナ入力の大きな欠点ではないかと考える。



で、本題。
「頭の中のローマ字変換に時間がかかる」
という人は、ローマ字を運指までマスターしてなかった人なんじゃないか。
これに反論する人たちは、
「慣れたら変換せず、勝手に指が動く」と、無意識になると言っていた。
この議論は、運指までマスターしてない人vsマスターした人、
という、そもそものすれ違いであったのではないだろうか。

で、
「親指シフトなどカナ入力は脳内ローマ字変換がないぶん楽」
なんて言っている人は、
配指だけはマスターしても、運指までマスターしきっていない、
まだ学びはじめの人の感想なんじゃないか、
というのが本題だ。

つまり、
配指マスターと運指マスターの間には遠い距離があって、
ローマ字配指マスターが、
カナ配指マスターにクラスチェンジしたときだけ、
「脳内ローマ字変換がなくて楽」というのではないか?

僕は運指マスターまでがマスターだと考えていて、
まだ下駄配列の運指をマスターしきれないから、
「カナ入力は運指の組み合わせ爆発がおおすぎ」
と文句をいうのではないだろうか。


もっというと、
言葉を発するときに、
塊で発する人と、
逐次で発する人がいて、
僕は塊でとらえている、というだけのことかもしれない。

たとえば、
よく聞き間違いをする人がいる。
僕は文脈という塊で聞いているから、
会話の流れから自動符号訂正をしている。
勿論これができるのは母国語だけで、
英語ではこれができない。
だから英語では逐次の人になる。

逐次で言葉を聞いている人は、
言葉をよく聞き間違うのではないか?
そういう人は、運指なんてよくわからなくて、
配指が言葉だと思っているのではないか?

あくまで仮説だけど。


僕は手書きで文字を書く時に、
ほぼ続け文字で書く。
筆を繋げないにしても、
ペン先は一連の曲線を描く。
その始点は塊の始点で、終点は塊の終点だ。
たとえば「終点」までを塊にするときもあるし、
「終点は塊の終点だ。」までを塊にするときもある。
その前までの言葉があれば、「」内は省略できる言葉だからだ。
つまり行間に属するところは、速く書く。
(そして創作とは、行間を読み合う楽しみだ)


言葉は、同じ濃度をもっていない。
どの音も一様分布をしていない。
大事なところは濃くて、
どうでもいいところは薄い。

僕は、濃いところはゆっくり正確に書きたいし、
薄いところはばっと飛ばしたい。
一文字の重さが、均等ではない。

逐次的な人は、おそらく一文字が均等的なのだろう。
飛鳥配列の人が「倍速打鍵」という言葉で、
文末は速くなるということを書いていたけど、
そんなの当たり前で、
一文字あたりの存在密度が違うのだから当然ではないか。
それが言葉だと僕は思っている。

これには個人差がありそうだ。
僕はそうだ、というだけにすぎない。


打鍵において、ロールオーバー、アルペジオは、
そういう薄い部分を一気に打つ、ということをしたい。
だから二重母音や拗音撥音促音長音は、
カタナ式ではそうしている。
いくらでもアルペジオで速く打てる。
(こないだ映像から測定したら、1/30秒より速いところもあった)
下駄配列ではそれはできないだろう。
他に出来るカナ配列があれば僕はそれをやりたいが、
原理的に、塊が大きくなればなるほど、
カナ同士の連接の多さが爆発的に増加するから、
行段系ローマ字のほうが僕にとっては性に合うのかもしれない。

これはカナ入力をマスターする途中での感想だから、
運指をマスターしてしまえば、
たいしたことなかったよ、
といえるのかもしれない。



少なくとも、
「親指シフトは頭の中でローマ字変換する必要がないから、
思考が素直に出て来る」というのは、
嘘だということがわかった。
分かったうえで宣伝に使っているのなら、
それは騙しであり、せいぜい初心者を取り込みたいがための、
詭弁だと僕は思う。



日本語は、子音と母音がある言語で、
一文字でいうのではない。
五段活用など活用形を考えればあきらかだ。
拗音や「いう」もほとんど一音だ。
文字は発音の代わりでしかない。

また、文字は文字だけで書き言葉になった。
言文一致は、21世紀の今でも、実現できていない。
posted by おおおかとしひこ at 14:02| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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