西遊記の最初の方は知ってても、
ラストがどうなったかはあんまり知られていない。
三国志の赤壁→三分の計までの序盤は知られてても、
ラストがどうなったかはあんまり知られていない。
巨人の星が魔球を投げたところまでは知ってても、
どうやって終わったか、知られていない。
つまり、大長編は、
映画の方法論と異なる、
というのが今回の議題である。
映画は、大長編に比べれば、短編なのだ。
だから切れよく落ちて、テーマを確定させなければならないのだ。
落語のほうが映画にとって西遊記より近い、
と言える。
北斗の拳がラオウまでは知られていて、
カイオウまでは微妙にしか知られていなくて、
北斗琉拳とかもう誰も覚えていなくて、
その後の話なんて誰ももう知らない。
キン肉マンもパーフェクト超人までかな。
聖闘士星矢も黄金十二宮までで、ポセイドンやハーデスなんか知らないよね。
風魔の小次郎だって聖剣戦争までだ。
ドラゴンボールはセルまでだな。
はじめの一歩も伊達までだな。
源氏物語だって葵上くらいかな。
神がかったところがどこかは、
その作品によるのかもしれない。
大体は最初が面白くて、
どっかで盛り上がって神がかり、
どっかで盛り下がって、盛り返せず、
どっかまで続いてひっそりと終わっているのだろう。
それは、物語として不幸だと僕は思う。
意味が確定せずに、
見放された、宙ぶらりんなものが存在するだけになる。
GANTSもAKIRAもひどかったなあ。
逆に、
だからこそイコンとして息長くあるのかもしれない。
あのときの勢いがずっと続いて、
人々には見えているのかもしれない。
僕は、すくなくとも映画は、
ちゃんと落ちるべきだと考えている。
一気に見るものだからだ。
休み休み見ていくものは、
どこかで引き延ばししたり、
どこかで失敗して、
望まれるラストを迎えられないのかもしれないなあ。
「リングにかけろ」は、
僕が初めてみたちゃんとした最終回だった。
先日最終回ベスト3を上げようと雑談していて、
ウルトラセブン、ハクション大魔王をぼくは挙げた。
リンかけをいれてツモかな。
あ、ファーストガンダムもあった。あしたのジョーもか。
それくらい、大長編というのはイマイチなラストで、
でも、
「若かったころの印象だけで覚えられているアイドル」
みたいな記憶になっているのかもしれない。
大長編のラストがどうあるべきかについて、
僕はたいして考えを持っていない。
しかし、映画のラストと同様になるのが理想だとは思う。
そして、映画のラストとは、
「今までのことにどういう意味があったか」を、
確定するラストがベストだと考えている。
だから、つまり、
大長編なんてほとんど出落ちだ。
出しっぱなしで責任をとっていない。
それは言い過ぎだろうか。
2017年12月01日
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