もし原作に、きちんとストーリーがあったらどうなるか。
それはまず、結論がどうあるかを考えなければならない。
まず、その映画は同じ結論にたどり着くべきかどうかを考える。
同じ結論になるのなら、
その道筋が、
実写版でも納得がいくようにしなければならない。
結論だけ同じでも、
映画だけ見たときに、
なんでそう言えるのか、分からないものは欠陥品だろう。
つまり、オリジナル脚本のときと同様、
問題がありそれを解決することに、
どういう意味があるかをつくる。
問題は、
大抵は映画の尺が原作よりも尺が短いということで、
妥当な結論に十分なストーリーになれない、
ということだ。
たとえば、
漫画「あしたのジョー」の結論は、
「真っ白に燃え尽きたい」だけど、
二時間尺の映画でそれを作るのは難しいかも知れない。
余程渇きを描いて、
何をしても乾いているジョーを描き、
唯一力石だけが楽しませてくれた、
という風にうまいことやらないとダメだろう。
しかし原作では力石は死ぬ。
ジョーはどうしていいか解らなくなる。
これがミッドポイントに来ないと、
後半の渇きまでたどり着かない。
しかし、いくらなんでも力石の死がミッドポイントは早すぎる。
ここで、
じゃあ結論を変えるのか、
構成を大胆に変えるのか、
二つの分かれ道がある。
もし結論を同じにするなら、
力石との決闘がクライマックスに変わり、
力石もまた真っ白に燃え尽きたいと思っている、
と動機を改変し、
死なない、と改変する手がある。
互いに燃え尽きた、という落ちにする。
(リンかけはそういうエンドだ)
力石が死ぬならば、
お前だけ勝手に燃え尽きやがって、
俺は世界を相手に燃え尽きてやるぜエンドかもね。
実写版「あしたのジョー」に結論なんてなかった。
(原作のそれに近づけようと頑張った節は見られるが、
いかんせん乾いたハングリーなジャニーズなんていなかったのだ)
結局、構成を似せて、
結論をアレンジする、
程度の脚色しか出来ていない。
だから凡作だったのだ。
原作のたどり着いた結論が、
至高であればあるほど、
実写版の結論は比較される。
「それは実現してるのか?」
が重大な関心ごとになるからである。
さて、ここまでは結論を同じくする、
という観点で議論してきた。
結論にアレンジを加える、
ということがとてもよくある。
そもそも原作の重厚さに勝てない程度の尺だから、
全く同じことをしてもしょうがないから、
あるいは、
最もある愚かな例が、
全く新しい結論に改変してしまえ、
などだ。
とくに原作が未完結のものでは、
新たな結論にしなければならない。
そこに改変の腕が必要になる。
成功した実写化は、
結論を原作と同じものにし、
かつ構成を変更してでも腹に落ちるように作り変えたものか、
あるいは、
原作の範囲内での結論にアレンジし、
構成を一部変更してそこへ落ちるようにつくったもの、
の二種類しかないと考える。
僕らなりのガッチャマンを作ったとか、
原作読んでませんとか、
大胆にオリジナルキャラを加えて、
とか、いらないのだ。
それは原作がなくても出来ることであり、
それは勝手にオリジナルで作ればいいことだ。
ちなみに、
最高の実写版とは、
「作者もたどり着かなかった、
ほんとうのこの作品のテーマ」
にたどり着くことだと思う。
僕が今まで見てきたもので、
それにたどり着いたものは、
「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」
だけだ。
だって先にやるなよ、と原作者が怒ったんだぜ。
自分の例では、
ドラマ風魔は、
実写化の中で最高傑作の候補のひとつに位置していると考える、
勿論原作と同じ、より深い結論にたどり着いたわけではない。
しかし、「この風魔もあり得る」というレベルには到達していると思う。
よく「別物だから、これはこれであり」
と言うけれど、
ありになるためには、実写版も傑作でなければならない。
それは、原作の傑作度に並ぶか、
越えなければならないんだよね。
つまり、〇〇という点では原作より劣っているが、
△△という点では原作より勝っている、
という風にならない限り、
並び立つことにはなれない。
はっきり言おう。
原作の実写化には、
原作者と同等の実力がいる。
(映画はチーム戦だから、チームの実力、
と言ってもいい)
テキトーにアレンジして、
ただのコスプレ大会にしてる、
才能なき阿呆どもよ。
原作者の才能にぶら下がる能無しどもよ。
ファンの前で腹をかっさばき、
地獄の閻魔に許しを乞え。
爆死程度では生温い。
才能に失礼だ。
僕はそう聞いたんだけどなあ。
ソースが出てこないのでデマかも知れません。
でも、当時の誰もが納得するテーマだったと思いますよ。
なぜあたるは浮気をするのか、に対する答えの話ですが。