みんな異常事態が大好きだ。
宇宙人が攻めてきた。
ある朝起きたら虫になっていた。
突然霧に覆われて出られなくなった。
なんでもいい。好きな異常事態を描こう。
問題は、その抜け出し方もストーリーに含まれることだけど。
物語とは、
普通の日常が、ある日突然まったく違う事態になることだ。
それは宇宙人みたいな外連味のあるものから、
転校生に恋をしたみたいなものから、
ある日体重が増えたのでダイエットを決意した、
などまで、
様々なレベルのものがある。
その中でも、
日常系よりも、
とんでもない異常のほうがいいよね。
それはやっぱり、
物語に現実逃避という役目があるからだと思う。
リアルには宇宙人は来ないけど、
物語の世界ではしょっちゅう宇宙人はやってくる。
リアルでは見れない異常事態は、
見世物の範疇だ。
見世物に来てまで、日本の暗い未来は見たくないだろう。
(いや、画期的な解決策が提示されるなら価値はあるかもだが)
だから、
物語の半分は、
「どれだけ面白い異常事態を創作できるか?」ということだ。
しかしその異常事態は、
物語の中で見事に収束しなけばならない。
異常で終わったらそれはオチがない話になってしまう。
結局のところ、
ストーリーというものは、
どういう異常事態から、
どういう日常に再着地したかということを競う。
嘘だと思うなら、
異常事態のまま終わる話を書いてみたまえ。
どう考えても打ち切りにしか見えないだろう。
ということは、
物語創作の残り半分は、
「異常事態をどうやって新しい日常状態におさめるか」
ということになる。
実際のところ、
これは50%などではなく、
99%の分量なんだけどね。
つまり、異常事態なんて、ストーリーを考える労力のうち、
1%程度の労力だ。
にもかかわらず、
最初のツカミは100%冒頭の異常事態の面白さで決まる。
これがストーリーの不思議なところだと僕は思う。
さて、
第一印象を決める、
面白い異常事態を考えよう。
おっ、これはみたことがないぞ、
という新しいパターンを考えよう。
これで半分は決まってしまう。
残りの半分、その見事な解決を考えよう。
実際のところは、
異常事態を考えた99倍の労力がかかる。
それを見事に解決できたときに、
あなたの面白いストーリーは出来上がるだろう。
さて、よくある問題に、
「自分で解決できないほどの異常事態」を考えてしまった、
というのがある。
自分一人では解決ができなくても、
協力したり、相手の力を使用したり、
強力ななにかを使えば、
解決できるかもしれない。
あるいはあっと言わせるアイデアが、
解決に導くかもしれない。
それを考え出すことが物語創作の醍醐味だともいえる。
リアルな問題解決から、
なるべく離れることをお勧めする。
リアルに近ければ近いほど、
みんな自分のリアルと比較して考えてしまうからだ。
リアルに近いほど、
こんなうまく行かねえよ、
と冷めてしまうからだ。
(たとえばスラムダンクは、
たかが一年で全国へ行けるはずがない、
というリアルな問題に近い。
しかしそれをどう奇跡的に突破していくかが、
フィクションの醍醐味なのに。
つまり、リアリティを追求しすぎて、
ダイナミズムが失われたんだね。
結果は打ち切りというか、
これ以上書けないところでの中断でしかなかった)
物語は、嘘を楽しむ道具だ。
だから、異常事態は面白いほどよく、
解決も見事ほどよい。
リアリティ溢れる物語とフィクションは両立できる。
世界はフィクショナルで、気持ちはリアリティで勝負するとよい。
世界をリアルに、気持ちもリアリティにすると、
飛べない話になる。小さくまとまった地味な話になる。
たとえば「海街ダイアリー」みたいな退屈な映画になる。
(四姉妹がカワイイというのがフィクションだ)
また、
異常事態と解決のペアが出来たら、
それから更に発展させるといい。
さらに異常事態になり、
解決するもまた異常事態が起こり…と連鎖を組むとよい。
そういう連鎖こそが、
二転三転の面白い話というものだ。
とりあえず、
ひとつの異常事態と、
ひとつの見事な(安易でない、劇的な)解決。
全てはそこからはじまる。
2017年12月05日
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