表現というのは、
海に船を漕ぎ出す行為だ。
そこにある水を押しのけ、鋭い舳先で切り込むことだ。
だから、自分の押しのけた水は、
必ず自分に圧力として返ってくる。
ネット時代になり、
誰でも自分の評判を検索できるようになった。
これは表現者にはマイナスだ。
自分への悪評をまともに見ることになるからだ。
ネットさえなければ、
せいぜい噂程度だった。
直接対面で批判してくるのは、
余程まともな批評を伴うか、
キチガイのどっちかで、
キチガイを除けば、それは身になる批評であった。
批評でなく感想を言うだけ、
それがネット時代だ。
感想は主観だ。
自分がわかる言葉しか使わず、
相手の理解を求めない。
(同意や共感は求める)
相手がどのような文脈を持っていても理解できるようには、
書かない。
そこまで考えて書くことはすでに立派な批評で、
それはネットに溢れる感想の1%だと思った方がいい。
ほとんどは、動物が叫んでいるだけだ。
ところが、ここからが重要なのだが、
感想は理解は求めなくても、
同意や共感だけは求める。
言うまでもなく「いいね」システムのためだ。
理解を求めない、主観的な物言いで、
公平な批評でないものが、
同意や共感という薄い連帯で広がってゆく。
炎上だ。
しかし炎上なんて、もっとマスからすれば一部に過ぎない。
私たちは全人類を相手にしようとしているのに、
高々数万いいねなんて端数だ。
数百万いいねだって足りない。
なにせテレビの1%は、1200万なんだから。
(もうそんなにテレビ見てないかもだが)
しかも人は、
満足したら言葉が出ない生き物で、
文句だけは言葉が巧みになる。
ここが厄介な所で、
悪評の方が評判より多いという錯覚に陥る原因だ。
サイレントマジョリティーは、
ビッグデータに反映しない。
私たち表現者は、これにどう向き合うべきか。
いちいちとらわれないことだ。
批評と感想を分けることだ。
そう思う向きもあるだろうが、
そう思わない向きもあり、
それはネットに反映されていないと考えるべきだ。
つまり、あなたの支持者は、
ネットには殆ど現れない。
あなたがファンの立場であれば、
それは分かるだろう。
ファンレター出すのは、
ファンの中でもエネルギーの高い人で、
残り9割の中の自分を自覚したことがあるはずだ。
そして自分は、いろんなものの、
そういう9割のファンであることを、
なんとなく自覚しているだろう。
残念ながら、その潜在性は、
ビッグデータと称するネットには反映されない。
つまりビッグデータなんて偏りだらけである。
私たちのファン心理はネットに出ない。
精々アンチと信者のレスバトル程度にしか見えない。
ということで、
私達表現者は、常に悪評を浴び続ける。
何かすればやいやい言われる。
それが村社会だ。
少なくとも日本村では、
少しかしこぶった人に必ず諭される。
やめておきなさいと。
物言わぬサイレントマジョリティーと、
自分を傷つける悪評、
それが表現者から見たお客様である。
だから初心者は縮こまり、
発表などやめてしまう。
だから最初の船の例を出した。
表現とは船を出すこと。
返ってくる悪評は、
押しのけた水の分の重さで、
それは必要な抵抗だ。
押しのけた量が多いほど、それは多いのだ。
じゃあ、その船で何を届けられたかが、
一番大事だと思う。
どんな喜びか?
どんなカタルシスか?
どんな知的興奮か?
どんな動物的興奮か?
表現は必ず誰かを傷つける。
傷つけた分は返ってくる。
私たちはその血を流しながら、
それでも船の荷を届けようとする者だ。
積荷がいいものじゃない限り、
そんなのやったって疲労するだけなんだ。
私は傷ついたが、たしかにこれは届けられた、
喜ぶ人はいるだろう、
そういうものを書くといいだろう。
傷つき損にならないように、
いいものを届けることだ。
世界を良くするものが理想だけど、
そこまでいかなくても、極上の表現だっていい。
さあ船を出せ。
積荷は確認したか。
嵐が来る。海流は厳しい。
船は壊れるかも知れない。
それでも船を出せ。
覚悟せよ。
その積荷を届けるために。
2017年12月07日
この記事へのコメント
コメントを書く