2017年12月10日

現実は、たいてい何にもならない

少し人生を生きてみれば分かるけど、
たいていのことはやってみてもうまくいかない。
たいていのことは途中で投げ出され、
計画は途中でねじられる。
時間の矢というのは残酷で、
物事はカオスに向かうように出来ている(エントロピー増大則)」。

だからこそ、うまく達成する、
という物語があるんだと思う。


現実はたいていカオスに終わる。
それに失望したり絶望した人が、
フィクションでカオスにならない終わり方を見て、
気持ちが立ち直れる。
ひょっとしたら現実でも、
うまい落とし所へいけるのではないかと。

フィクションの究極の目的は、
僕はそのように人々を元気づけることではないかと考えている。

だから、フィクションでは、
現実はそううまくいかないよ、
と突っ込まれたら負けだと思う。

それは、「これはフィクションだから、
御都合主義は大目に見てください」
と言い訳をすることではなく、
「こんなことが起こったらどんなに素敵だろうか」
と思わせないと負けだということである。

それは偶然でもよいし、
人が起こすことでもよい。
そして、偶然に頼るものならば、
フィクションでやる意味なんてなくて、
人が起こす必然を見せることが、
現実はカオスではないと思わせることだと思う。

だから、ストーリーには必然が必要なんだ。

無理や矛盾はストーリーの敵だ、
というのは、
単に面白くないから、
という以上に、
フィクションの役割をほんとうには分かってない、
という上位の理由によって却下なのだ。


ぼくは、タナダユキが、
「百万円と苦虫女」のラストを、
ビターエンドで締めたことに納得がいっていない。
タナダユキは、
「リアルはこうでしょ」と、
ラストをハッピーエンドにすることを好まなかったらしい。
僕はそれは間違っていると思う。
リアルはそうだからこそ、
僕はフィクションで納得するハッピーエンドを見たいのだ。
それがリアルに負けるなら、
そのフィクションは、力が弱いフィクションなのだ。

つまりそれは、リアル以上の素晴らしいフィクションを用意出来なかった、
実力不足の吐露でしかない。

もっとも、
お花畑みたいなスイーツなフィクションなんてクソだ、
と批評することは素晴らしい。
だけど、リアルに負けたら、
結局フィクションの敗北なんだよな。

お花畑みたいなスイーツなハッピーエンドでなく、
リアルなビターエンドでもない、
それを凌駕する素晴らしいハッピーエンドを作るのが、
フィクションを作るものの仕事だと思うんだ。
だってリアルに負けるんなら、
フィクションなんかなくてもいいからだ。
じゃあドキュメントを見るか、
見るなんて行為はやめて、
リアルをただ生きればいい。
所詮現実はカオスよ、と波をかき分けていけばいい。

僕は、多くの人々はそこまで強くないと思っていて、
フィクションで納得したいことが沢山あると思っている。

悪の横行する現実でも、
勧善懲悪のフィクションを見たいだろう。
死に意味がない現実でも、
意味のある死に方をするフィクションを見たいだろう。

宗教は、カオスなる現実に、
フィクショナルな意味を与えるものであった。
だから、素晴らしいフィクションを作った人は、
教祖扱いされるよね。


人間は意味がほしい。
世界って何?人生って何?
命って何?宇宙って何?
その全部に応えることは、一本のストーリーでは不可能だろう。
でも、そこにつながる、
世界にはこういう意味がある、
と納得できることは、
フィクションの役目の一つであると、
僕は考えている。

勿論、
全く新しい考え方を納得させてもいいし、
昔からある考え方を納得させてもいいし、
昔からある考え方を、現代に通用するようにしてもいい。

ああ、私たちの生きている現実は、
法則も何もないカオスではなく、
このような意味があるのだ、
生きててよかった、
そう思わせるのが、
いいフィクションというものだ。

あなたの自己表現なんかに誰も興味はない。
この嫌な現実に、
光明を見出すものを、人は求めている。


勿論そんなものは簡単には作れない。
少しずつ、テーマをうまくストーリーで語ることを、
マスターしていかないと技術的にたどり着けないし、
今この世の中で何をフィクションとして言うべきかを、
自分の中に持っておかないと、
技術があっても言うべきことが空虚になる。

最近、プロの作品でも後者が増えた。
役者は頑張ってる、撮影部照明部美術部は頑張ってる、
しかしストーリーやテーマが面白くない、
そういうものが増えている気がする。
何を言うべきか、何が言えているのかで、
金が集まらず、ガワで金が集まるからだ。

そのガワを利用しながらも、
きちんと骨のあるフィクションを作れる人が、
増えていってほしい。

現実はたいてい何にもならずに、カオスで終わる。
フィクションでこそ、人は理想や意味を完結させられる。
posted by おおおかとしひこ at 13:41| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。