面白さには二種類ある。
これを使い分けること。
それは「どうなるんだろう」という面白さと、
「こうなった」という面白さだ。
YouTubeでよくある「やってみた」系は、
実はほとんどは「どうなるんだろう」の面白さだ。
つまり、その結果はどうでもよく、
「不可思議なシチュエーションが面白い」
であればよい。
やってみたらどうなるんだ?
と思わせてクリックさせれば勝ちだからだ。
たとえ落ちが、「やっぱそうか」
(結局何にもならない、
失敗して酷い目にあうに決まっている、
時間と金の壮大な無駄)
になっても構わない。
いっとき面白かったね、でよい。
これはバラエティの面白さである。
「ほんとにそれをやってみよう、
やってみたいぞ」という好奇心がその原動力だ。
実際、ほとんどのバラエティ、YouTube動画は、
この好奇心を満たせばそれでOKだ。
あとは好ましい人物がそれをやるだけでよい。
結果、何にもならなかろうが、
その時を共有すれば、
なかなか興味深かった、で終われる。
また来週と言われたら、
また来週見たくなる。
その中毒性こそ、バラエティや動画の面白さといってよい。
これは、物語の面白さとは、
根本的に違うと僕は考えている。
物語の面白さとは、落ちの面白さである。
あれとあれとこれとそれが、
結局こうなった、
という結論の面白さだ。
カップルにたとえよう。
あの人とあの人が付き合ったらどうなるんだろう?
が前者のバラエティ的な面白さであり、
結婚して幸せになった、
性格の不一致で別れた、
あの人が浮気性で傷ついて別れた、
などが物語の面白さである。
つまり、
前者は期待の面白さで、
後者は満足する面白さで、
前者は原因の面白さで、
後者は結果の面白さだ。
実のところ、
「どうなるんだろう」と思わせておいて、
どうにもならなかった物語を書いてしまう、
あるいは、
どうにもなりそうにないので、途中でやめてしまう、
そういうケースはすごく多いだろう。
「面白くなりそうだったのに、
面白くならなかった」
という結果になっているだろう。
わざと書いたのだが、
このふたつの「面白い」は、性格が異なるのだ。
「面白くなりそう」は、期待の面白さで、
バラエティの面白さで、起因の面白さだ。
「面白くならなかった」は、結果の面白さで、
物語の面白さで、結末や結果や満足の面白さだ。
バラエティはちょっかいをかける面白さ、
物語は責任を取る面白さだ。
付き合うまではバラエティ、
結末にピリオドを打つのが物語の面白さだ。
だから、ちょっかいをかけたはいいが、
責任が取れなかった、
というのが、
多くの人が悩む、
「面白くなりそうだったのに、
面白くならなかった」
ではないだろうか?
僕はこれを避けるために、
結末から考えろとか、
因果をペアで考えろとか、
そこから立ち上がるテーマとはなんぞや、
みたいなことを最初から考慮に入れろとか、
これまで言ってきている。
しかしこの方法論も万能ではなくて、
きちんと作ろうとすればするほど、
バラエティの、
「最終的には責任を取らないが、
とりあえず好奇心でやってみた」
に負けることが多くなるということだ。
そりゃそうだ。
こっちは落ちまで考えたひとつの世界を提供するのに、
むこうはそこまで考えない瞬発力で、
初速でこちらを上回る。
人がどちらを先に見るかというと、
初速のある方だ。
その後の満足などは最後まで見なければならず、
最後が微妙でも、
それは見た人の責任みたいになってしまう。
ということで、
バラエティとは初速やり逃げである。
私たちストーリーテラーが責任を取ろうとして、
初速が鈍足であればあるほど、
バラエティチームにやり逃げされるのである。
対策はある。
・バラエティチームより初速を上げる。
・バラエティにやり逃げされた人たちを、フォローしてゆく。
どちらをとっても良い。
前者は、ストーリーテリングの実力と、
バラエティの才能が必要である。
いや、バラエティチームの中でも抜きん出なければならない。
ヒキはバラエティ的な面白さで決まるからだ。
ということは、
何が面白そうなのか、
そして何が面白かったのか、
その二つをわけて、どっちも極めなければいけないということになる。
だから、脚本は難しい。
後者の方法論は、
バラエティには派手な所を譲り、
地味でも効くものを作るという考え方だ。
実力勝負、といったところか。
しかしこれは地味でバラエティ負けするため、
注目されにくいという欠点がある。
純文学、邦画、地味な小説、演劇、
実力派ドラマなどは、
この袋小路に入っていると思う。
チャラい男にやり逃げされてほぞを噛んでいると思う。
勿論、それが素晴らしければそれでいい、
と割り切る手もあるのだが、
そんだけ素晴らしいなら、
マスに載せるべきだし、
それだけ作者は報われていいと思う。
ところで。
バラエティの才能だけある、
口だけの人たちが書く企画書は魅力的だ。
だって責任をとらない前提だからね。
こういう企画書が、見る目のない製作委員会の会議で一番を取ってしまい、
ゴミのような物語(になりきれていないなにか)が量産されているのが、
今の邦画の衰退だと考える。
企画書映えするのは、やり逃げするほうだからね。
企画会議が間違ってると思うのだが、
それは今言ってもしょうがないことだ。
つまり、
我々がしなければならないことは、
「面白そう」ばかり考えるのではなく、
ほんとうに面白かったを作り込み、
なおかつ、
バラエティチームに負けない「面白そう」を作り上げることだ。
困ったね。
でもやるしかない。
最悪は、「こうなった」という面白さをきちんと書けるようになることだ。
「どうなるんだろう」は素人でも出来る。
つまりいつでも散発的に出て来るから、
まずはしっかりしたストーリーを作りあげて、
その皮をかぶせれば良いのである。
何が面白いんだ?
それを問う時、二種類のおもしろいがある。
ヒキの面白さ、終わった時の面白かった、
そのふたつだ。
そして後者は、物語にしか出来ない。
2017年12月14日
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