2017年12月14日

どうなるんだろう/こうなった

面白さには二種類ある。
これを使い分けること。

それは「どうなるんだろう」という面白さと、
「こうなった」という面白さだ。


YouTubeでよくある「やってみた」系は、
実はほとんどは「どうなるんだろう」の面白さだ。

つまり、その結果はどうでもよく、
「不可思議なシチュエーションが面白い」
であればよい。

やってみたらどうなるんだ?
と思わせてクリックさせれば勝ちだからだ。

たとえ落ちが、「やっぱそうか」
(結局何にもならない、
失敗して酷い目にあうに決まっている、
時間と金の壮大な無駄)
になっても構わない。

いっとき面白かったね、でよい。
これはバラエティの面白さである。
「ほんとにそれをやってみよう、
やってみたいぞ」という好奇心がその原動力だ。

実際、ほとんどのバラエティ、YouTube動画は、
この好奇心を満たせばそれでOKだ。
あとは好ましい人物がそれをやるだけでよい。

結果、何にもならなかろうが、
その時を共有すれば、
なかなか興味深かった、で終われる。
また来週と言われたら、
また来週見たくなる。

その中毒性こそ、バラエティや動画の面白さといってよい。


これは、物語の面白さとは、
根本的に違うと僕は考えている。

物語の面白さとは、落ちの面白さである。
あれとあれとこれとそれが、
結局こうなった、
という結論の面白さだ。

カップルにたとえよう。
あの人とあの人が付き合ったらどうなるんだろう?
が前者のバラエティ的な面白さであり、
結婚して幸せになった、
性格の不一致で別れた、
あの人が浮気性で傷ついて別れた、
などが物語の面白さである。

つまり、
前者は期待の面白さで、
後者は満足する面白さで、
前者は原因の面白さで、
後者は結果の面白さだ。

実のところ、
「どうなるんだろう」と思わせておいて、
どうにもならなかった物語を書いてしまう、
あるいは、
どうにもなりそうにないので、途中でやめてしまう、
そういうケースはすごく多いだろう。

「面白くなりそうだったのに、
面白くならなかった」
という結果になっているだろう。

わざと書いたのだが、
このふたつの「面白い」は、性格が異なるのだ。

「面白くなりそう」は、期待の面白さで、
バラエティの面白さで、起因の面白さだ。
「面白くならなかった」は、結果の面白さで、
物語の面白さで、結末や結果や満足の面白さだ。

バラエティはちょっかいをかける面白さ、
物語は責任を取る面白さだ。
付き合うまではバラエティ、
結末にピリオドを打つのが物語の面白さだ。


だから、ちょっかいをかけたはいいが、
責任が取れなかった、
というのが、
多くの人が悩む、
「面白くなりそうだったのに、
面白くならなかった」
ではないだろうか?


僕はこれを避けるために、
結末から考えろとか、
因果をペアで考えろとか、
そこから立ち上がるテーマとはなんぞや、
みたいなことを最初から考慮に入れろとか、
これまで言ってきている。

しかしこの方法論も万能ではなくて、
きちんと作ろうとすればするほど、
バラエティの、
「最終的には責任を取らないが、
とりあえず好奇心でやってみた」
に負けることが多くなるということだ。

そりゃそうだ。
こっちは落ちまで考えたひとつの世界を提供するのに、
むこうはそこまで考えない瞬発力で、
初速でこちらを上回る。

人がどちらを先に見るかというと、
初速のある方だ。

その後の満足などは最後まで見なければならず、
最後が微妙でも、
それは見た人の責任みたいになってしまう。

ということで、
バラエティとは初速やり逃げである。

私たちストーリーテラーが責任を取ろうとして、
初速が鈍足であればあるほど、
バラエティチームにやり逃げされるのである。


対策はある。
・バラエティチームより初速を上げる。
・バラエティにやり逃げされた人たちを、フォローしてゆく。

どちらをとっても良い。
前者は、ストーリーテリングの実力と、
バラエティの才能が必要である。
いや、バラエティチームの中でも抜きん出なければならない。
ヒキはバラエティ的な面白さで決まるからだ。

ということは、
何が面白そうなのか、
そして何が面白かったのか、
その二つをわけて、どっちも極めなければいけないということになる。

だから、脚本は難しい。


後者の方法論は、
バラエティには派手な所を譲り、
地味でも効くものを作るという考え方だ。
実力勝負、といったところか。
しかしこれは地味でバラエティ負けするため、
注目されにくいという欠点がある。
純文学、邦画、地味な小説、演劇、
実力派ドラマなどは、
この袋小路に入っていると思う。
チャラい男にやり逃げされてほぞを噛んでいると思う。
勿論、それが素晴らしければそれでいい、
と割り切る手もあるのだが、
そんだけ素晴らしいなら、
マスに載せるべきだし、
それだけ作者は報われていいと思う。


ところで。
バラエティの才能だけある、
口だけの人たちが書く企画書は魅力的だ。
だって責任をとらない前提だからね。

こういう企画書が、見る目のない製作委員会の会議で一番を取ってしまい、
ゴミのような物語(になりきれていないなにか)が量産されているのが、
今の邦画の衰退だと考える。

企画書映えするのは、やり逃げするほうだからね。

企画会議が間違ってると思うのだが、
それは今言ってもしょうがないことだ。



つまり、
我々がしなければならないことは、
「面白そう」ばかり考えるのではなく、
ほんとうに面白かったを作り込み、
なおかつ、
バラエティチームに負けない「面白そう」を作り上げることだ。

困ったね。
でもやるしかない。
最悪は、「こうなった」という面白さをきちんと書けるようになることだ。
「どうなるんだろう」は素人でも出来る。
つまりいつでも散発的に出て来るから、
まずはしっかりしたストーリーを作りあげて、
その皮をかぶせれば良いのである。


何が面白いんだ?

それを問う時、二種類のおもしろいがある。
ヒキの面白さ、終わった時の面白かった、
そのふたつだ。

そして後者は、物語にしか出来ない。
posted by おおおかとしひこ at 13:01| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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