2017年12月18日

分かった時が、おわり

いつ終わるべきか?
終わりや落ちに向かうにはどうすればいいのか?
そもそもストーリーの線はなんなのか?
そういうことをよく見失う。

そういう時は、
「分かったら、終わり」「終わりは、分かったとき」
と考えるとよい。


まず簡単なミステリーの例を。

「犯人が分かったとき」が終わりである。

ミステリーは犯人探しが一番の原型だ。
犯人が分からないからこそ、
その謎解きを証拠や状況から推理する。

しかしこれはパズルと同じで、
人には理解力や推理力に差がある。
だからストーリーの進行より先に分かられてしまうと、
台無しになってしまう。

一気に見る前提の映画や演劇なら気づかないことでも、
テレビでトイレに行ってる間や、
DVDや配信で一時停止してる間に、
推理が進んで犯人が分かってしまうことも、
まれによくある。
(週間漫画は一週間空いてしまうから、
その間にみんなの推理が進むという欠点がある。
ネットの反応を見ながら描く漫画家も増えてしまっただろうが、
ネットだけが世間の標準ではないということを忘れがちで、
ネット民の裏をかこうとしてしまい、
裏の裏の裏みたいな袋小路にいきがちだ)

だから、よほど単純なミステリーでない限り、
たとえ犯人が分かったとしても、
「どうやってやったのか」(アリバイ、トリック)
「なぜやったのか」(動機や背景)
を解いていくパターンが多い。

(専門用語ではハウダニットHow done it、ホワイダニットWhy done it
と言われることがあるが、ここでは省略)

つまりは、
「犯人はこの人なのだろうが、
どうやってやったのかが明らかでなく、
仮に明らかになったとしても、
何故そうまでする必要があったのが分からない」
などのようにするのが常道だ。

これらはバリエーションを作れて、
「犯人は確定し、アリバイもトリックも崩れたが、
動機だけが不明」や、
「アリバイもトリックも動機も分かるが、
果たして誰の犯行か」
などもある。

刑事コロンボに至っては、
「犯人もトリックも動機も(観客には)明らかなのだが、
どうやって(劇中の人物に)明らかになり、
確定、逮捕に至るかは分からない」
というトリッキーなバリエーションでやっている。

(この、「観客には明らかだが、
劇中の人物には明らかでなく、
それを明らかにしていく」スタイルまたはその状況を、
劇的アイロニーという。
Dramatic irony=劇的アイロニーは誤訳だと思うが、
それで定着してるので毎回注をいれる。
僕は「情報量の差」くらいに意訳して良いと思う)


つまり一般化すれば、
ミステリーとは、
殺人事件に関して、
いくつかの謎を提出し、
それを解き明かし、
全て分かったところで終わるジャンルである。

動機の解明に重きを置けば人間ドラマ寄りに、
トリックやアリバイの解明に重きを置けばトリッキーなものに、
展開に重きを置けばドラマ寄りに、
それぞれなるというわけだ。

また、殺人事件に限らなくてもミステリーという。
たとえば歴史ミステリーとかは殺人でなくてもよい。
「誰が書簡を送ったのか」
「関ヶ原の戦いの本当の勝利者は」
など、
事実に即したうえで謎を提出し、
それを解き明かせばよい。
(だから歴史ミステリーの新作が作られるときは、
新事実が見つかったときや、新説に基づくものが多い)
同様に科学ミステリーは、
たとえば、
「3.4光年の先にはどういう世界があるのか」
「量子力学をマクロにも拡張できたら
(いわゆる世界線もの)」
などの謎に答える形になる。
(勿論これは殺人事件と絡めれば、
急にミステリーの色合いを帯びる。
「2001年宇宙の旅」は人工知能が人間を殺すミステリーでもある)



で、ようやく本題。


特にミステリーと限らず、
全てのストーリーは謎解きである、
ということだ。
その謎はたったひとつで、
「このストーリーのテーマは何か?」
である。


似たようなものにセンタークエスチョンがある。
「果たして主人公は、成功、勝利するだろうか?」
などを節目節目でおくとよい。
(第一ターニングポイント、第二ターニングポイント、
第一ピンチ、第二ピンチで必要と、
シドフィールドは言っている)

これは、「最終的にはイエスと言われるんだろうな」
と予測されることを置く、ということで、
謎解きというよりは、「期待」だ。

センタークエスチョンが明示されないのは、
つまりは期待を持たせることに成功していない。

期待を持たせられていない<期待を下回る
<期待に答える<期待を上回る

の順だと思う。


しかし、テーマが必ずしも謎解きになるとは限らない。
たとえば勧善懲悪がテーマになるのは、
最初から分かりきっている話はたくさんある。
愛が大事だって分かるラブストーリーはたくさんある。
これらは改めて言うまでもないことだが、
どうして人気があり沢山作られるかというと、
大事なことだからである。
あるいは、大事なことが揺らいでいるとき、
大事なことを改めて確認したいからだ。

分かりきったことがテーマだとしても、
「ミステリーの犯人探しがメインにならない」ように、
色々な謎のバリエーションはありえる。
「どうやって成功させるのか?」
「逆転手段はなにか?」
「サブテーマはなにか?」
「大体の落ち所は予測がつくが、完全にはどう落として来るのか?」
「あの伏線を使うのは予測がつくが、それをどう使うのか?」
「もうあいつは戻ってこないのか?」
「一見矛盾しているように見えるこれらのことを、
うまく統合する設定は何か?」
「結局これはどういうことだったのか?」
などだ。


で、
「謎が全て解けたときが、おしまい」
であるということ。


理想は、全ての謎がラストに全て分かること。
それで終わると気持ちいいから。
「そうかそういうことだったのか!
大体こうだろうなと思ってたけど、
なるほどここに来たのか!」
と感心、感動、腑に落ちる瞬間こそ、
ストーリーの終わりというものだ。

逆に、謎が全て解けて明らかになったあとに、
だらだら続いても何の意味もない。
解けたパズルはもう触らない。


だからこの最後の一点に向かい、
上手く謎を張り、期待させながら、
かつうまく落とさなければならない。


下手な人は以下のような欠点を持っている。

期待のさせ方が足りない。
期待に応えることが出来ていない。
期待を上回ることをしていない。
謎がそもそもない。
謎が投げっぱなし。
謎をうまく解明した気になっているが、よく考えると矛盾がある。
その答えに使っていない謎が、(大抵は意図せざるものが)残っている。
謎が明らかになるときが気持ちよくない。
謎が多すぎ、期待が多すぎ。
逆に謎が少なすぎ、期待が少なすぎ。

などなど。


これは根本的な問題だろうか?
プロットの時点で大丈夫ならたぶん
チューニングで改造することは可能だ。
しかしプロットの時点で下手であれば、
チューニングレベルでは困難で、
根本から改造の必要がある。
だから、プロットでその後の成否が決まるのである。


テーマや詳細なことや、
色々なことが、
「なるほど、全部を通して、こういうことだったのか」
と合点がいき、腑に落ちること。
それが物語だ。

あるいは、人の話すことは全てこうかも知れない。


何が分かってて、
何が分かってないのか、
その時点で整理してみると、
向かうべき場所が見えてくることがある。

上手に分からないことを振りまき、
上手に半分は分かり、
上手に半分は残して、
上手にまた新たに不明な所を振りまき、
上手にわかった!という部分をつくり、
上手に最後にまとめ、
グッと腑に落とそう。

それが出来てないのは、出来てないストーリーである。

アレのアレはなんだったの?
と聞かれて終わりだ。
posted by おおおかとしひこ at 22:34| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。