私たちが好きなのは、
果たしてディテールなのだろうか。
それともストーリーなのだろうか。
台詞はどっちだろうか。
台詞の、
「言葉そのもの」「どういう文脈で、誰がそう言ったか」
「その場面でその言葉を言うことに含まれる意味」
はストーリー。
「どういう表情や間をとったか」
「どんな俳優だったか」
「他の仕草やポーズ」
「画面の色調や音楽、ムード」
はディテールだ。
どっちが情報量が多いかというと、
ディテールのほうである。
私たちはディテールを楽しみ、
さらに、
その奥にあるストーリーを抽出して、
最後に一体のものとして、
楽しんでいる。
そのうち、ストーリーに属することは脚本で書き、
脚本が書かれてから、
スタッフやキャストによって、
ディテールが足されていく。
だから脚本は骨格であり、
ディテールは肉付けで、
逆に作ってもだめだ。
肉付けに合う骨格を逆に作ることは出来ない。
こう考えればわかるはずなのだが、
殆どの初心者は、
ディテールから作り始めてしまう。
そうして、ディテールとディテールが齟齬を起こし始め、
それを繋ぐ太い糸、すなわちストーリーが見出せず、
破綻しておしまいになる。
超能力のある小学生が、
校舎の壁にブンと穴を開け、
パラパラと粉が落ちてくる。
同時に犬が鳴いた。
たとえばこういうのはディテールに過ぎず、
ストーリーではない。
それは場面の詳細な描写に過ぎず、
それが怒りの表現に当たるのか、
事故の表現に当たるのか、
告白の表現に当たるのか、
それはストーリーが決めることだ。
どれだけ分かっていても、
なぜかまず場面を浮かべてから、
ストーリーを繋げようとしてしまう。
それはなぜかというと、
多分、
「頭の中に出てくるイメージ」は、
ディテールだからだ。
おそらく、ストーリーというものは、
頭の中に出てくるイメージではないのだ。
で、ストーリーを作ろうと思うと、
途端にできなくなるのは、
頭の中に(ディテールが出てきたように)出てこないからではないか。
逆に、ストーリーとは、
ディテールを頭の中に浮かべることでは作れない。
ディテールは静止しているものであり、
思い浮かべるときには、
情報量が大きい。
逆にストーリーを頭の中で考えるときには、
情報量、つまりディテールを落としてから考えるとよい。
顔とか姿形とか、背景とか忘れて、
今何が起こっていて、
どうなろうとしていて、
誰が何目的で、何を考えたり感じていたり、
何をしようとしているかを、
考えるとよい。
それが出来てから、
言い方や表情や、
背景や色調や、
ちょっとしたニュアンスづけなどの、
ディテールを頭の中にイメージすると良い。
つまり、
情報量を落として頭の中で考えて、
あとで情報量を足して増やすのだ。
脚本を書いたり、
リライトするという行為は、
情報量の少ない状態で、
具体を持たず抽象で考えることに近い。
(僕は、個人的には、
脚本は理系のものだと考えている。
具体を持たず抽象で考えることは、
つまり数学の本質だからだ)
よくあるのが、
脚本を書いているときに、
ディテールがわあっと湧いてきて、
それが気に入ってしまい、
脚本を変更する必要があとあと出てきても、
そのディテールを捨てることが出来ず、
その場面を変更できないことだ。
これは、ディテールという、
情報量の多いものをコントロールしきれない状態にあるということ。
ディテールによらない、
ストーリーだけを分離して、
情報量を圧縮した状態で考えていたら、
ディテールに依存せずに加工が自由になるはずである。
極端にいうと、
「どんなディテールであっても面白いストーリー」
を書くべきだ。
人気俳優がやろうが、
アニメや人形劇でやろうが、
◯△の記号で表現されるキャラクターだろうが、
下手くそな絵だろうが小畑健の絵だろうが、
平凡な背景だろうがスターウォーズ並みのシチュエーションだろうが、
映画史に残るスゲエアクションだろうが、
豪快で緻密なアクションだろうが、
ただのじゃんけんだろうが、
どのようなディテールで描いたとしても、
面白いストーリーを書くべきなのだ。
そんなの想像もできない、
と思うだろうか?
だとしたら、
あなたはまた、ストーリーからディテールを、
頭の中で分離できていないのだ。
ディテールがストーリーだと勘違いして、
ストーリーをディテールで捉えてしまっている。
勘違いして欲しくないのは、
ストーリーが偉くてディテールが劣った立場だということではない。
私たちは相変わらずディテールに魂を奪われる。
スターウォーズのディテールは、
中二病を刺激する何かがあり、
それは世界的な何かだ。
だが、
脚本家のするべきことは、
タトゥーインが東京の下町でも、
ライトセイバーが鉄棒でも、
マークハミルじゃなくて無名の役者でも、
面白いストーリーを考え出すことだ。
オリジナルの「スターウォーズ」
(現エピソード4)は、たしかにそうであった。
当時無名の役者と(ハリウッドにしては)低予算で乗り切った。
しかし残念ながら、
それ以降のすべてのシリーズはうんこストーリーの、
ディテールだけは素晴らしい、
ただの鑑賞品でしかない。
(8はまだ見てない)
圧倒的ディテールは面白い。
しかしそれはストーリーそのものの面白さではない。
それを分離できていて、
かつ最終的に面白く融合できれば、
なんの問題もない。
これは、訓練でしか獲得できないと僕は考える。
圧倒的ディテールに負けないこと。
たとえば漫画「アキラ」は、
圧倒的ディテールは世界最高峰だが、
ストーリーはクソレベルだ。
だから価値がないわけではないが、
ここは脚本の立場から物事を見るので、
無価値と断言する。
圧倒的ディテールに負けるな。
その奥にあるものを見よ。
2017年12月20日
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