2017年12月20日

圧倒的なディテール

私たちが好きなのは、
果たしてディテールなのだろうか。
それともストーリーなのだろうか。
台詞はどっちだろうか。


台詞の、
「言葉そのもの」「どういう文脈で、誰がそう言ったか」
「その場面でその言葉を言うことに含まれる意味」
はストーリー。
「どういう表情や間をとったか」
「どんな俳優だったか」
「他の仕草やポーズ」
「画面の色調や音楽、ムード」
はディテールだ。

どっちが情報量が多いかというと、
ディテールのほうである。

私たちはディテールを楽しみ、
さらに、
その奥にあるストーリーを抽出して、
最後に一体のものとして、
楽しんでいる。

そのうち、ストーリーに属することは脚本で書き、
脚本が書かれてから、
スタッフやキャストによって、
ディテールが足されていく。
だから脚本は骨格であり、
ディテールは肉付けで、
逆に作ってもだめだ。

肉付けに合う骨格を逆に作ることは出来ない。

こう考えればわかるはずなのだが、
殆どの初心者は、
ディテールから作り始めてしまう。
そうして、ディテールとディテールが齟齬を起こし始め、
それを繋ぐ太い糸、すなわちストーリーが見出せず、
破綻しておしまいになる。


超能力のある小学生が、
校舎の壁にブンと穴を開け、
パラパラと粉が落ちてくる。
同時に犬が鳴いた。

たとえばこういうのはディテールに過ぎず、
ストーリーではない。
それは場面の詳細な描写に過ぎず、
それが怒りの表現に当たるのか、
事故の表現に当たるのか、
告白の表現に当たるのか、
それはストーリーが決めることだ。

どれだけ分かっていても、
なぜかまず場面を浮かべてから、
ストーリーを繋げようとしてしまう。

それはなぜかというと、
多分、
「頭の中に出てくるイメージ」は、
ディテールだからだ。
おそらく、ストーリーというものは、
頭の中に出てくるイメージではないのだ。

で、ストーリーを作ろうと思うと、
途端にできなくなるのは、
頭の中に(ディテールが出てきたように)出てこないからではないか。

逆に、ストーリーとは、
ディテールを頭の中に浮かべることでは作れない。
ディテールは静止しているものであり、
思い浮かべるときには、
情報量が大きい。
逆にストーリーを頭の中で考えるときには、
情報量、つまりディテールを落としてから考えるとよい。
顔とか姿形とか、背景とか忘れて、
今何が起こっていて、
どうなろうとしていて、
誰が何目的で、何を考えたり感じていたり、
何をしようとしているかを、
考えるとよい。

それが出来てから、
言い方や表情や、
背景や色調や、
ちょっとしたニュアンスづけなどの、
ディテールを頭の中にイメージすると良い。

つまり、
情報量を落として頭の中で考えて、
あとで情報量を足して増やすのだ。

脚本を書いたり、
リライトするという行為は、
情報量の少ない状態で、
具体を持たず抽象で考えることに近い。
(僕は、個人的には、
脚本は理系のものだと考えている。
具体を持たず抽象で考えることは、
つまり数学の本質だからだ)

よくあるのが、
脚本を書いているときに、
ディテールがわあっと湧いてきて、
それが気に入ってしまい、
脚本を変更する必要があとあと出てきても、
そのディテールを捨てることが出来ず、
その場面を変更できないことだ。

これは、ディテールという、
情報量の多いものをコントロールしきれない状態にあるということ。
ディテールによらない、
ストーリーだけを分離して、
情報量を圧縮した状態で考えていたら、
ディテールに依存せずに加工が自由になるはずである。

極端にいうと、
「どんなディテールであっても面白いストーリー」
を書くべきだ。

人気俳優がやろうが、
アニメや人形劇でやろうが、
◯△の記号で表現されるキャラクターだろうが、
下手くそな絵だろうが小畑健の絵だろうが、
平凡な背景だろうがスターウォーズ並みのシチュエーションだろうが、
映画史に残るスゲエアクションだろうが、
豪快で緻密なアクションだろうが、
ただのじゃんけんだろうが、

どのようなディテールで描いたとしても、
面白いストーリーを書くべきなのだ。

そんなの想像もできない、
と思うだろうか?
だとしたら、
あなたはまた、ストーリーからディテールを、
頭の中で分離できていないのだ。

ディテールがストーリーだと勘違いして、
ストーリーをディテールで捉えてしまっている。

勘違いして欲しくないのは、
ストーリーが偉くてディテールが劣った立場だということではない。
私たちは相変わらずディテールに魂を奪われる。
スターウォーズのディテールは、
中二病を刺激する何かがあり、
それは世界的な何かだ。

だが、
脚本家のするべきことは、
タトゥーインが東京の下町でも、
ライトセイバーが鉄棒でも、
マークハミルじゃなくて無名の役者でも、
面白いストーリーを考え出すことだ。

オリジナルの「スターウォーズ」
(現エピソード4)は、たしかにそうであった。
当時無名の役者と(ハリウッドにしては)低予算で乗り切った。
しかし残念ながら、
それ以降のすべてのシリーズはうんこストーリーの、
ディテールだけは素晴らしい、
ただの鑑賞品でしかない。
(8はまだ見てない)

圧倒的ディテールは面白い。
しかしそれはストーリーそのものの面白さではない。

それを分離できていて、
かつ最終的に面白く融合できれば、
なんの問題もない。

これは、訓練でしか獲得できないと僕は考える。
圧倒的ディテールに負けないこと。
たとえば漫画「アキラ」は、
圧倒的ディテールは世界最高峰だが、
ストーリーはクソレベルだ。

だから価値がないわけではないが、
ここは脚本の立場から物事を見るので、
無価値と断言する。


圧倒的ディテールに負けるな。
その奥にあるものを見よ。
posted by おおおかとしひこ at 14:14| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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