2017年12月21日

圧倒的なディテール2

じゃあ脚本にディテールは不必要なのか?
実はそうじゃない。
ここからが深いところの話。


「細かいところはあとで決まるから、
適当に書けばいい」
と書いても、面白い脚本にはならない。

面白い脚本とは、考え抜かれたものである。

何故ここでそうするのか。
(何故ここであれをせずにこれをするのか)
何故これがここにあるのか。
何故これは自然なのにこれは不自然なのか。
何故これが自然に見えるのか。
この世界での常識の、首尾一貫性。
我々の世界との一定の距離感、
または首尾一貫した距離の調節の仕方。
意図せざるミスを全て取り除いてあること。

などの、基本的な無矛盾性が、
まず最初に作られているかどうかだ。
単に頭から書いただけでは一発でそうならず
(簡単な話ならなるが、
面白く複雑にしようとすればするほどこれとの闘いだ)、
大抵は何度も何度も何度も何度もチェックして書き直し、
無矛盾だがつまらなくなり、
面白いが矛盾があり、
を繰り返して磨き上げたものになるはずだ。

それらのディテールこそ、
圧倒的な力を放つはずである。


また、
書かれている言葉自体は高々48000字だが、
それが文字量以上の含みをもつ。
言葉というのは、
氷山の一角で多くを語らなければならない。
つまり、膨大な何かをフィルターで濾して、
たった一言に込められた沢山の思いに、
結晶化しなければならない。
勿論、
その短い言葉の背後の氷山まで伝わらなければ、
表現として面白くも何ともなく、
ただの作者の自己満足だ。

言葉には、
「ああーはらへった」
くらいの動物のレベルから、
自作で言えば、
風魔の10話、小次郎の「そうです」
というたった4文字に秘められた思いの量まで、
様々な、言葉の背後の量の違いがある。

ディテールとは、なにも大きさや細かさを、
大量に並べることではない。

それは単に一対一対応のものであって、
デカイとか細かいとかの、絵のレベルだ。

ことばは、深い。
つまり、短いことばなのに、
それ以上に含みや意味や思いを、
沢山込めることができる。

勿論あなただけが込めて誰も気づかないのは意味がない。
それをみた人なら全員が共有できる、
短い言葉で、
しかも背後の意味の方が沢山ある言葉。
それを文字面の面積よりも深いという。

人が深さを感じるのは、
つまりその意味の量が、伝わったときだ。

何故人は間をおくのか?
その短い言葉の背後の大量の意味を、
受け取る時間なのだ。

「あーはらへった」という、
言葉以上の意味がないものなら、
間をおく必要などない。
逆に、今まで人間を食べることを禁止されていた妖怪が、
死刑囚が脱走したため、食べることを許可された時、
「あーはらへった」は、
深みを持つ。
だから少し間が必要だろう。

あるいは、二人が出会った時に、
たまたまお互い腹が減ってて、
それで二人が仲良くなったことがあれば、
プロポーズのときに、
その飯屋の前で、
「あーはらへった」ということばは、
プロポーズになり得る。

たかが動物的な言葉に、
たくさんの意味を持たせることができる。

これが、ディテールだ。


僕は理系なのでつい数式を書いてしまうが、
深さ=言葉の意味の量/言葉数
ということだ。
(言葉の意味の量は数字化出来ないので、
これは意味のない数式だけど)

つまり、
脚本家の描くディテールとは、
言葉そのものと、
言葉の裏にある膨大な意味との、
二つの次元に跨っている、
ということ。

沢山字を書けばいいのではない。
それはディテールではない。

圧倒的なディテールとは、
文字自体の量×深さだといえる。


小次郎が「そうです」じゃなくて、
「うん、そうなんだよ」と、
今までタメ口で話してたのと、
同じ調子で話してしまっては、
「そうです」に込められた、
17歳の高校生の友達的なデートではなく、
忍びとして主君と一線を引く、
つまりは死の決意をしたこと、
という意味を伝えることができない。
つまり、
「うん、そうなんだよ」よりも、
「そうです」のほうが深い。

それは、文字だけを見ていても書くことはできない。
文脈を作り、
それをどういう言葉でどう受けるか、
ということをずっと考え続けなければならない。
その持続的思考こそ、
ものを書くということだ。

勿論、再三注意をするが、
それが伝わらなければ何の意味もない。
「そうです」の前に、
さんざんタメ口があったからこそ、
この台詞は効果的に深みを持たせられ、
その瞬間に観客全員が悟るわけだ。
その時に吹く風の、なんと切ないことだろう。
この風に乗って小次郎は去って行く、
その二人を引き裂く運命をも暗示していることを、
読み取れるはずである。



脚本における圧倒的なディテールとは、
つまりは、背後の意味だ。

短い言葉で、色々伝えられることだ。


あと僕の好きなのは、
ガンダムでカイシデンが、
最終決戦に出撃するとき、
辺りを振り返って、
「俺たち帰れんのかよ」とビビる場面だ。
動物的な無防備な言葉に、
カイの弱さ、狂気の戦争と無邪気な子供の対比、
それでも俺たちには帰れるところがあるという、
疑似家族という最後のテーマとつながる、
重要な深い情報が込められた台詞だ。

これだけのことを一行で表現できるようになるのが、
一流だと思う。


含みを持たせる京都人の文化は、
つまりはそれだけ文化先進だということだね。
ぶぶ漬けでも食べていきなはれ。
posted by おおおかとしひこ at 10:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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