2017年12月23日

doがドラマであり、be doneはドラマではない

勿論、doばかりを一方的に仕掛け続けなくてもよい。
be doneからはじまって、
doで返し、またbe doneされて、doで返し…
というリレーがあってもよい。

しかし、主人公が、be doneされておしまいなのを、
メアリースーという。
それは受け身願望で、御都合主義で、
甘えだ。

世界をdoで変える。
それがドラマだ。
反発も抵抗もあるだろう。
でもそれが正しいからこそ、第三者(世界の中の人、観客)は応援するのだ。
世界を悪い動機でdoするやつを悪という。
ドラマはdoとdoのぶつかり合いだ。
決してbe doneのセットではない。
何故なら、演劇や映画は、
観客がbe done状態のメディアだからだ。
be doneの口開けてるやつらが集まってもなにも生まない。

ドラマを生む為には、doが必要だ。
doには、必然的に、何故それをするのかという動機、
醸される物議、
それがどうなったかという結果、
それになんの意義があるのかという意味が、
付随する。
ついでに危険が伴うほど、ドキドキする。

それを決めて世に問うのがあなたの仕事だ。


be doneを垂れ流して主人公に代償行為を求めるのは間違っている。
メアリースーとはつまり、
男にとっては主観フェラAVの二時間垂れ流しで、
女にとっては主観クンニの二時間垂れ流しと同じである。
(LGBTの方は適当に読み替えてください)
もしあなたがメアリースーを書いて満足しているなら、
あなたは実生活でフェラやクンニをされ足りないだけだ。

僕が嫌いなメアリースーは、「かもめ食堂」の、
何故かみんなに拍手をされるシーンだ。
普段拍手をされていない、報われていない主婦たちが反応したという。
なんと不幸な。
妻に、母に、俺たちが拍手すればいいだけなのに。
みんな欲求不満なんだ。


しよう。されるな。
大人ののび太は黙ってろ。
posted by おおおかとしひこ at 12:24| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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