ストーリーとは一語の動詞で書けるべきだ。
これは今までも書いてきた。
しかしメアリースー症候群は、
これを自動詞にしてしまう。
倒す。悪を。
告白する。あの子に。
謝る。あの人に、あのことを。
持つ。荷物を。
壊す。ビルを。
これらは、目的語を持つ、
他動詞である。
動詞には二種類ある。
自動詞と他動詞だ。
目的語を持たないものを自動詞、
持つものを他動詞というのは、
大昔文法でやっただろう。
メアリースー症候群は、
目的語を持たない、
自動詞で書くことだ。
泣く。
立つ。
一歩踏み出す。
辛いと感じる。
大体この辺の自動詞が多い。
あるいは、他動詞でも受身形になる。
ありがとうと感謝される。
ごめんねって言われる。
よく頑張ったと励まされる。
認めてもらう。
実は好きでしたと言われる。
幸せにしてやるぜと言われる。
プロポーズされる。
僕がいわゆる少女漫画に昔から馴染めなかったのは、
このただ一点だ。
大人になってからは、
シンデレラ症候群でない、
女の作家の書いた話もあると知ってからは、
少女漫画に二種類あることを知ったけど。
たとえば萩尾望都はいい。
シンデレラ症候群、のび太症候群、メアリースー症候群は、
物語を書く上では、
殆ど同じ意味である。
自動詞か、受身形という動詞をメインにする、
という点で。
努力せずに幸せにされたい。
その胎児のような心がその正体だ。
それ自体は人間全てが持つもので、
それに関して責めるつもりはない。
だけどそれを人前で言うかな、
ということだろうね。
メアリースー症候群は、
私と、他人であるところの、物語の主人公が分離していない状態のことである。
私が努力せずに幸せにしてほしいのと、
全く同様に、
他人であるところの、
主人公も努力せずに幸せにされたい、
と捉えているのだ。
身内ならまあわかる。
妹を傷つけずに幸せに出来る男を求めたり、
後輩にひどいことを言う輩から守りたいのは、
人ならばやる。
だが、主人公は身内ではない。
作者にとっては身内の意識がつい強くなってしまうが、
全ての観客にとって、身内ではない。
他人の子供の運動会ビデオをよく例に出すけど、
他人の身内話なんて、
ほんとにどうでもいい。
それを、作者の身内意識が、曇らせる。
主人公は身内でも作者でもない。
どこかで野垂れ死にしそうな、
どこかの別の人だ。
どこか別の人が、
自動詞したり受身形されることを見て、
何が面白いのだ。
身内でもなんでもない人が、
面白くなるには、
「何かを」「何かする」しかないのだ。
つまり、目的語を、他動詞するのだ。
あなたの主人公は、
目的語を持っているか?
なければ、それはシンデレラかのび太かメアリースーだ。
怠惰なる我々は、
心根のところはシンデレラかのび太かメアリースーだ。
それが主人公の私小説は、
やっぱり何もしないだけの語り上手でしかないと思う。
それは世界に愚痴って何もしないことと同じだよな。
この原稿は、1500からのメアリースーとの打ち合わせのために、
冷静になるために書いている。
長く格闘していた作品がひと区切りつき、コメントできるほどの余裕が生まれたところです。
自動詞と受け身の指摘は、面白いですね。「一歩踏み出す」なんかはついやってしまいそうな感じがして、ドキッとしました笑
1500からの打ち合わせ、がんばってください。
1500からの打ち合わせはプロデューサーに阻止されました。
会わずにコントロールされていることに、
不信と憤りを感じており、
もう勝手にやるぞと。
こういう一枚岩にならないのが、
昨今の映像業界のダメなところですね。