運指を練り、配列をこう改善したらどうか、
というループを繰り返している。
沼かな。でも速くなってきているから、
泥沼ではないだろう。
で、運指意識を変えると、
同じ運指でも苦のときと、苦じゃない時があることに気づいた。
その音で終わり(文節、単語など)だと思っている時の、
指の動かし方と、
その音から次に続くと思っている時の、
指の動かし方が、
違うことに気づいた。
必死でそこまで打とうとしている時には、
余裕がない。
次に続くと意識の中にあれば、
そこは終着点ではなく、
蹴って次へ進むためのピボットポイントに過ぎない。
人生論みたいになってきた。
評価打鍵中に、
「これは配置が悪いのだろうか」
と違和感を感じる運指があって、
メモして、
またしばらくして同じ運指に来た時に、
そうだチェックしなきゃ、
と思い慎重に打つと、
あっさり行ける時があって、
何が違うんだろうと思っていて、
調子とかだろうかと思っていて、
前後関係で指の動きは変わるのだろうかと仮説を立て、
自分の区切り意識で、指の動きが無意識に変わることに、
気づいたというわけ。
よくないから動かそう、
というのは配列の初期によくあることだけど、
動かしても動かしても悪化することもよくある。
それは沼に入ったのではなくて、
「よくない」と判断する、
その意識が間違っている可能性があるぞ、
と気づいたわけだ。
で、続けるつもりで打とうとするときと、
そこで一区切りをつけようとするときの、
二種類、その運指をしてみて、
違和感を見る、
ということを、最近やるようになってきた。
文の終わりが終わりの意識かな。
いや、文章を書くときは、
少なくとも段落の終わりまでは続ける意識があるもので、
集中力が続く限りは、
一続きの意識で書いているはず。
ということは、
たどたどしいブラインドタッチの、
新しい配置の運指に慣れていないことが原因の運指のつまづきなんて、
間違った判断になるよ、
という自覚をしなければ。
「なんかやりにくい」の違和感には三つあって、
慣れてないだけ。
そこで区切ったらやりにくくなるだけ。
本当に配置がよくない。
の、何に当たるのかを作者が見極めて、
作っていかなきゃならないんだねえ。
相変わらず僕の指は、
名作の作者ほど動かないので、
なるべく楽な動きを求めているようだ。
特に左手はほんとにきつい。
カタナ式では薬指小指を追放したけど、
カナ配列の薙刀式じゃ流石に無理で、
ほとんど初めての、
薬指小指がらみの運指を考える、
ということをしている。
で、意識の持ちようで手指の準備感覚が異なる、
という不思議現象に突き当たった。
そういえば、下駄配列をやっていたときでも、
右手の何指かと同時打鍵すれば、
何故だか左の薬指小指がいつもより動く瞬間があった。
シンクロする動きなら動かない指でも動く、
という現象に気づいて設計しているのなら、
恐るべき指と無意識についての慧眼だ。
まあ配列的にそういうことはもう出来ないので、
打つ人の思考意識に入って考えることにする。
タイプウェルでも、
次の言葉が見えてないときは指がグダグダになるよね。
そういう感じのこと。
勿論、文章を書くことで思考がクリアになってくる、
という現象もあり、常に見通しが良いわけではないのだが。
つまり、運指に迷っているときは、
たぶん次の言葉が出てきてないときなんだ。
ことばを書くことの根本まで降りないと、
配列設計は難しい。
2017年12月30日
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