2018年01月01日

狼少年の末路(ファイアパンチ総評)

乗りかかった舟だ。
ケツを持つとしようか。

何故ファイアパンチは、
面白そうな要素を詰めていながら、
面白くなかったのか?

それは、ストーリーが良くなかったからだ。
ではストーリーとはなんだろうか?
それが僕が生涯をかけて追い求めているもので、
このブログでひたすら分かったことを書いているものである。

僕が分かっている限りのことにおいて、
ファイアパンチの反省会をしておこう。


ストーリーが未熟な者は、
以下の病にかかりやすい。
これらはストーリー論、脚本論でしか語られず、
あまり知られていない概念かも知れない。
(ここの読者にはおなじみだが)

1 メアリースー(のび太症候群)
2 セカイ系
3 設定は面白そうなのに、展開や結末がつまらない

みっつは密接に関係していて、
実は根っこのところは同じなのだが、
表面にあらわれる現象としては異なる位相に見える。

ひとつひとつ解説していく。


1 メアリースー症候群(のび太症候群)

主人公が、
何故かみんなから好意的に見られ、
あるいはハーレムになる。
努力をせず、その結果を出さず、
人間的に魅力があるかどうかも不明なのにだ。
これは、
「努力せずに、危険を犯さずに、
好かれて幸せになりたい」
というのび太的な作者の願望の投影だ。

この投影は間違っている。
何故なら、作者は主人公が自分になっているから、
「いやー幸せにしてもらって気持ちええわー」
と悦に入る一方、
読者は「はあ?なになんもせずに都合よく幸せになってんの?」
と置いてけぼりになる。
「全部ご都合かよ」と作者のオナニーを眺めるしかない。

さらにこれは「何故か最強である」
という設定が付随することが多い。
最弱がモテモテになるのはおかしいというバランス感覚か、
自分最強投影のどちらかだ。
そして大抵、その最強設定は、
のび太症候群なので、「他人からタダで与えられる」
というパターンが多い。

メアリースーの名前は、
アメリカの二次創作で有名なオリジナルキャラかららしい。
日本ではのび太症候群のほうが通りがいいだろう。

のび太の場合は、
ぐうたらで他人任せのところが、
酷い目にあうという、コントのオチの為の前振りに過ぎない。
(因果応報)
しかし、酷い目にあわず、
ぐうたらで、幸せを他人任せや道具任せにし、
勝手に幸せになった、ならどう思う?
なんでやねん、おかしい、勝手に幸せになってろや、
と呆れるはずである。

私たちの世界の常識では、
ただ勝手に幸せになることはない。
努力して、それでもだめなこともあって、
妥協して、それでもだめなこともあって、
諦めて、なんとか幸せを掴むのが、
私たちの住む世界である。
幸せはやってこない。
幸せは自分から掴まないとやってこない。
幸せは、努力や懸命ななにかの結果や報酬であり、
向こうからラッキーにも来て死ぬまで続くものではない。

だから勝手に幸せになるのび太がいたら、
勝手にやってろ、それは私たちとは関係ない、
と、私たちは思うのだ。

メアリースー症候群の主人公は、
受身で幸せになる。
自分から何かを与えたり、危険を冒して達成したり、
逆境を乗り越えることなく、
誰かから与えられたり、認められたり、
何故か偶然幸せになる。
勿論、バランス感覚で、
危険を冒して自らがんばる:他人に幸せを与えられる
=2:8くらいになっている場合もある。
しかし他人に与えられるのが過半数を超えた時、
それはのび太だ。

ストーリー論はとくにアメリカで発達したからかもだが、
その比率は10:0にせよ、と教える。

日本だと、閉じた社会の人間関係も描くから、
その割合は8:2くらいになることもある。
それにしても「他人にしたことは巡り巡ってくる」
という考え方の元、
他人からの親切や報いは、
自分から何かしたことへのお返しになるべき、
という考え方が支配的だ。

なにもしないやつが、他人から幸せにしてもらう、
全面的な受身形。
それがメアリースー症候群で、のび太症候群で、
シンデレラ症候群だ。

シンデレラがわかりやすいかもだ。
「なんにもない私」かつ「貧乏でいじめられてる」が、
魔法使いという他人に幸せにしてもらい、
王子様に幸せにしてもらうストーリーは、
全面的に受身であり、
彼女は夢を叶えただけだ。
シンデレラはストーリーではない。
これを模倣した少女漫画もストーリーではない。
ただの願望リストだ。

メアリースー症候群とは、
自分の夢を主人公に叶えさせてしまう癖である。
投影とはそういうことだ。
で、なぜか最強の主人公が、
なぜか周囲からモテモテで、
なぜか努力せずに幸せを掴む。
(掴むという積極的能動的行為ではなく、
大抵やってくる偶然のような、
消極的受動的行為である)

主人公アグニは、
何故か最強の再生があり、
何故か首を切られてそのまま行動せず、
何故かトガタに色々教えられ、
何故かトガタにベヘムドルグバトルのお膳立てをされ、
何故かトガタに好かれ、
何故かドマを殺し(自分の意志やリスク関係なく)、
何故かトガタに救われ、
何故か都合よく記憶を失ったユダにも好かれ、
何故か都合よく記憶が消え、
何故か都合よく虐殺の罪が消え、
何故か都合よく宇宙でユダ(ルナ)と再会して、
何故か都合よく抱かれて眠る。

自分からは何もしない。
リストカッターくらいだろうか、
自分のしていたことは。

全て周りがお膳立てしてくれて、
何かちょこんとやるだけ。
サービスされまくっているだけだ。


僕は第一話を少し評価した。
復讐という強い動機、
それに最悪の逆境を乗り越え、
克服した異形の姿。
ここには、受動的メアリースーではなく、
不幸を自力で乗り越えた積極性があったからだ。
この時点で、
僕はメアリースーではない、
自ら苦難を乗り越え続ける積極的なストーリーを期待した。

しかしこれは第一話にしかなく、
以降全編に渡って主人公アグニは、
前半はトガタに振り回されてお膳立てされ、
後半はユダに振り回されてお膳立てされた、
ただののび太だった。

メアリースー症候群はビッグマザーを伴うことが多い。
自分より大きくて優しい母の意味だ。
前半はトガタがビッグマザー、
後半はユダ(ルナ偽名)がビッグマザーだった。
お母さんにお膳立てされて、
甘やかされている子供。
それが主人公アグニだ。

それは作者の投影だ。
作者の「楽してビッグマザーに囲まれて、
何もせず幸せになりたい」という願望の、
現れでしかないのだ。

(ちなみにビッグマザーは異性でなくともよい。
シンデレラにおいて、
王子様も魔法使いのばあさんも、両方ビッグマザーである。
女が主人公の場合、権力者がビッグマザーになることが多い。
足長おじさんのパターン)


さて、そんなのび太願望は誰にでもある。
それを内に秘め、外に漏らさない限りは罪はない。
金を払って赤ちゃんプレイをしてくるのは、
プライベートでは構わない。

問題は、他人の前に作品として出してしまうことだ。
私たちは「自分がそうなるのはウェルカムだが、
他人がそうなるのはムカつく」という性質がある。
できればその果実は自分だけが得たくて、
他人にその果実を譲りたくないのだ。
だから、他人ののび太に嫌悪感を見出すように出来ている。

だから他人を賞賛するのは、
努力せずに勝手に果実を得た時ではなく、
努力して、正当な報酬として果実を得た時だ。

作者は、アグニを他人として描くべきなのに、
自分の代償行為としてアグニを描いた。
これが最大の問題だ。

作者からすれば自分を描いているのに、
他人、読者全員から見たら、それはオナニーなのだ。
それに最後まで作者は気づいていない。
そこが問題だ。

ストーリーはオナニーではない。
作者が気持ちよくなるためのご都合ではない。
作者以外の全員を、
「努力の結果正当な果実を得る」ことで説得するプレゼンである。
なぜなら、
アグニは、読者全員から見て、他人だからだ。

この、
作者だけが主人公=自分と思っていて、
それを見る全員がアグニを他人だと思っていて、
作者だけがそれに気づいていない状態が、
メアリースー症候群、のび太症候群、シンデレラ症候群なのだ。

だから、作者の恥ずかしい願望がまともに出てしまう。
なぜトガタやユダなどの最強のビッグマザーに、
次々と好かれるのか?
なぜ偶然色々とうまいこといくのか?
なぜユダは木になり、
勝手に地球は幸せになるのか?
(10年暮らして1回セックスしただけで、
その理由は我々の前にプレゼンされていない)

トガタの映画が、
最後のチャンスだった。
そこで何かがつながることを、
私たちは期待した。
しかし肩透かしだった。

自分のしてきたことの罪に気づいたり、
トガタとの日々を思い出して改めて生きることを考えたり、
これまでのことを総括できる機会だった。
しかし、都合よく何も思い出さず、
都合よく自分全肯定しただけだった。

そう。
メアリースーとは、責任を取らずに回避することだ。
ビッグマザーのおっぱい吸って、
何も危険なことも責任が生ずることもないことだ。

メアリースーにはケツを持つとか、
責任を取るとか、
リスクを追うとか、
後悔するとか、
失う痛みとか、
覚悟とか、
ない。

僕は、それがストーリーだと考えていて、
自分から何かをすること:他人から何かを与えられること
=10:0から8:2
くらいだと考えている。

だからファイアパンチの第一話にはそれなりに感情移入したし、
第二話以降は急に詰まらなくなり、
批判し、
そして最終回まで、
あの第一話はなんだったのだろうと、
結末まで見守ってきたわけだ。

結局、
ストーリーたり得たのは第一話だけで、
第二話から最終話までは、
全てがシンデレラでしかなかった。

僕が一番疑問に思ったのは、
暗転してからのドマ殺害だ。
自分に自覚のないまま殺すというのは、
「殺す」ことへの責任がなさすぎる。
殺す必要はないかもなのに、それでも殺すを選択する、
その責任を取ることがなかった。

自分のやりたい目的ですら、
責任を伴わずにご都合お膳立てをされたい、
というひ弱な願望だけが見える。

大いなる力は大いなる責任を伴う。
スパイダーマン1と2をあと100回見ろ。
3は見なくていい。サム・ライミ版のみ認める。



2のセカイ系について。

結局、前半はトガタとのセカイ系で、
ドマなんてどうでもいいお飾りの道具でしかなく、
後半はユダとのセカイ系だった。

この作者は、脚本論における実力不足だ。
実力不足の脚本家は、
「二人のシーンしか書けない」
という法則を覚えておくといい。
三人以上その場面にいると、
彼らをうまく活かせないのは、
脚本力が未熟な証拠だ。

それは、その場面に複数の意志や意図や感情が渦巻く、
複雑な状況に耐えられないからだ。

だから、「自分と全面的に自分を認めるビッグマザー」
の場面に逃げてしまう。
それがセカイ系の正体だ。
セカイ系は、二人の物語ではない。
自分とビッグマザーの、未分化の一人の物語、
つまりは独り言に過ぎない。


ネネトやサンのいた前半、
彼らがいても人形扱いだった。
そして他人はすぐ死んだ。
後半、槍女やマスクマンやパンツマンが出てきたが、
意味なく人形のように死んだ。
キャラの使い捨てはつまり、
「複数の意志や意図が渦巻く」
をうまく捌ける力がなく、
「自分とビッグマザーのセカイ」に逃げた証拠である。
キャラクターをすぐ殺すことで、
他人の目を消したいからだ。
それは客観的目線の消失だ。
「アグニとトガタを、周りはどう思っているのか」
「アグニとユダを、周りはどう思っているのか」
の視点が欠けている。
赤ん坊と母親のセカイにどっぷり浸かりたい願望だからだ。

セカイ系がエヴァ以降たくさん現れたが、
そういった批評がたくさんあったかは知らない、
セカイ系は母体回帰願望でしかない。
お前は子宮から出てきたんだ。
帰らずにこの場所で闘え。

勿論、子宮回帰願望は誰の中にもある。
しかし果実のたとえと同じで、
全員、「自分だけは得をしたくて、他人が得してるのはムカつく」
という習性がある。
オナニーを自室でやるのは自由だが、
他人の前では全員をムカつかせるのだ。



3 設定は面白そうなのに、展開や結末がつまらない

これも脚本の初心者によくあることだ。
スタートまでで全力を使い果たしていて、
スタート以降に全力を使っていないのだ。
レースの練習で全力を使って、
本番でエネルギー0からスタートするようなものだ。

過去や設定はバネである。
本編をどう面白くするかの道具に過ぎない。
ところが、設定を、
そのストーリーの初速だと勘違いしている。
ロケットスタートを切ったようなものだと。
その設定を使って別の何かと絡めていくのではなく、
ロケットスタートしただけだから、
それはいずれ初速から失速する。

第一話の鉄の能力者を省略で倒したり、
列車の中でサイモン師匠をポロッ一コマで倒したりと、
一見斬新に見えたやり方は、
初速をロケットスタートし、
それを折るという、
実は出落ち狩りでしかなかった。
それが何回も続けば飽きられてしまうから、
狼少年は別のロケットスタートを作らざるを得ず、
氷の魔女はいなかったとか、
ホモ兄弟がトガタの世話をしてるとか、
実は氷河期とか、
地球人はもういなくてここは見捨てられた星とか、
実はスーリャが氷の魔女を名乗ってるとか、
スーリャによる地球改造計画とか、
トガタは男だったとか、
ドマは教育者とか、
そういう設定をどんどん追加して、
出落ちロケットスタートを繰り返す。

その何かはストーリーと絡んだだろうか?
実はほとんど絡んでいない。
何故なら、主人公アグニが、
積極的に、責任を取りながら、自ら行動する、
というものがなかったからだ。
つまりこの沢山の設定は、
全てアグニが甘えるための、
おっぱい違いでしかなかったからだ。

設定は下駄を履いたロケットスタートではない。
それを利用し、あとに使い、
絡めて、変化させ、
統合し、最後にはそれがどういう意味だったのか、
全て明らかになるものである。
設定はつまり、複線であり結論であり、結論の前振りだ。

たくさん出てきた設定をさばききれなかったのではなく、
設定をそのようにひとつも使うことが出来ず、
設定を出し続けることで、
目先を変えることしか出来ないからだ。

それは狼少年である。

私たちストーリーテラーは嘘つきだ。
フィクションという面白い嘘をつく。
面白げな設定を用意して、
そこに主人公を放り込み、
グツグツと煮る。
主人公は甘えたことは出来ず、
自ら動き出して、他人を動かし、責任を取りながら、
世界の設定を利用しながら、
ついには何かを達成する。
そしてそれは、設定と結果を総合してみると、
何か意味のあることになっている(テーマ)。

藤本タツキなる人物は、
これらのことを何一つ出来ず、
ただ目先の面白げなロケットスタートだけを繰り返して、
嘘をつなぎ続ける、狼少年であった。
ストーリーテリングとは、
一続きの練り上げられた織物のようなものであるが、
藤本タツキの語る偽ストーリーは、
目先を変え続けてストーリーがあるように見せかける、
ストーリーの皮を被った、
辻褄の合わない嘘の連続だ。

そういう嘘って、どうなるか知ってる?
たいてい、外国へいったりする。
つまり、
「辻褄が合わなくなって、別の場所へ行ってしまって、
前の場所のあれこれをなかったことにする」
というやり方を取る。
ファイアパンチもご多聞に漏れず、
10年飛ばし、
80年飛ばし、
数万年飛ばした。
場所を変えるどころか、地球まで割ってしまった。
嘘はなかったことにする、
責任を取らない、最低のやり方だ。


もし、それらの全て汚い手を使ったとしても、
とても崇高で素晴らしいテーマの為だとしたら、
成る程素晴らしい仕事だと感心できるのだが、
結局は「ビッグマザーのおっぱいに抱かれて眠りたい」
というメアリースーでしかなくて、
吐き気がするどころか、
あまりにも初心者のテンプレで、
僕は新年から苦笑している。

苦笑していた写真、なんだったんだろうかね。
何故ユダを殴ったら記憶が飛ぶのかね。
脳損傷で記憶が飛ぶなら、何故自殺したかったトガタは、
頭を爆発させたと言った時に、記憶が飛ばなかったのか。
もう何故の嵐だ。
それもこれも、全部地球とともになかったことにした。

狼少年は、最後どうなるんだっけ。
吊るし上げにされるんだっけ。
嘘を信じて騙された人は怒る。
狼少年は、嘘つきとして二流だったわけだ。
一流の嘘つきは、
嘘と分かっているのにそれを楽しんで、
嘘と分かっているのに、〇〇は正しいのだ、
などと納得してお金を払い、
あまつさえ人生の指針になるくらいのものをいう。
それがフィクションというストーリーである。

で、ファイアパンチは、
そのフィクションであるストーリーには、
1ミリも届いていない。

面白い設定や、場面場面の勢いは、
なかなかの才気を見せた。
それは微分だ。
ストーリーは積分なんだよね。
惜しい、あとはストーリーだ、なんて評価は間違ってる。
積分の才能は、微分とは関係ないから。

ここは脚本論という、積分を語る場所なので、
ファイアパンチのストーリーが全面的に話にならず、
かつ第一話のストーリーだけは良かった、
ということを分析した。

漫画論的にはもう少し広い範囲の議論があるだろう。
脚本論として僕ができるのはここまでだ。


ラストシーン、
死後の場所の暗喩の映画館に、
今までの全キャラがいて拍手でもすれば、
複線が回収された気になったかも知れない。
でもそれじゃイデオンかエヴァだな。

新年一発目の記事がこれですか。
まあ去年の埃払いということで。
posted by おおおかとしひこ at 12:52| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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