直感的に考えても分かることだ。
体育館に、好きなだけ色んなものをぶちまける労力と、
それをきれいさっぱり片付けることの労力は、
5:5ではない。
にも関わらず、
「惜しかったなあ、風呂敷を広げるところまではうまくいったのに、
畳むところがうまくいかなかった。
半分は出来たのに」
と考えてしまう。
それは、本当には風呂敷を畳んだことのない素人の戯言だ。
実際のところの労力差はどれくらいかな。
1:9かな。
いや、1:20かな。
大長編になればなるほど、
その差は広がっていくかも知れない。
CMなら1:5くらいで、
30分なら1:10で、
二時間なら1:20くらいかな。
もっと長い連載などは、
1:50とか1:200とか1:1000かも知れない。
にも関わらず、
「風呂敷を広げること」と「風呂敷を畳むこと」を、
等分量で考えてしまうのは、
「宝くじは当たるか当たらないかの確率1/2」
と考えてしまうぐらいに、
知性が足りないことだと考える。
等価でないものを、
概念の数で数量化して見積もる、
という愚かさだ。
「自分はブスか美人か、1/2」と言ってるバカと同じだ。
風呂敷を広げることは、誰でも出来る。
面白そうなオープニングを1シーンだけ書くことは、
脚本を学ぼうとする殆どの人が書けるだろう。
なんだったら素人が適当に書いた
(あとあと責任を取るつもりがない)オープニングのほうが、
面白いかも知れないくらいだ。
精子をばらまくことは簡単で気持ちいい。
しかしそれを受け止めて一つの秩序にまで整えるのは、
その何倍もの難しさ、丹念さ、忍耐、持続的執念、愛情、
持続的世話が重要だ。
その労力差は、5:5ではない。
しかしながら、なぜ、
「惜しかった。半分まではいったのに」と思ってしまうのか。
「自分は悪くない」と、自分の失敗を過小評価したがる、
保護心理から来ている、
ということを自覚したほうが良い。
あと半分どころか99%残っていたのに、
あと50だったと保護する。
自分はブスか美人かの二択と自分を保護する。
ギャンブルは勝つか負けるかだ、
だから今日負けても明日は勝つ、
と言っているバカと同じだ。
自分を保護したいのである。
風呂敷を畳むのは、
広げることの何倍も何十倍も手間と実力と運がいる。
あと半分でもなんでもない。
浅瀬でパチャパチャやってんじゃねえ。
足のつかない海の底へこい。
私たちストーリーテラーは、
無酸素の状態で海に潜ったままだ。
そこで解決策を見つけ、
見事に光明を見出すまで深海にいる。
上がれればラッキー、解決策がなければドボンだ。
だから見事に解決策を見出した脚本家に、
私たちは拍手を惜しまない。
浅瀬に飛び込んだだけで、
あと半分だった、と言ってるのは、
深海を知らない子供だけだ。
2018年01月03日
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