2018年01月05日

だからダサイクルはまわる

前記事の続き。

自分がどれだけ苦労し、興奮し、工夫したかについて、
物作りをする人はいくらでも語れる。

だが、その気持ちと出来は関係がない。
だから、その気持ちを傷つけたくなくて、
「自分の作品を過大評価する」
または「自分の作品を冷静に批評することから、
極端に逃げる(逆に攻撃する。攻撃は防衛本能)」
ことをしてしまう。

これがダサイクルの原因となる。


ダサイクルとは、
美大界隈で使われるローカルな言葉らしく、
最近知った。

すなわち、
「自分の作品がダメだと認めたくないから、
批判されるのが怖いから、
他人の作品への攻撃を一切しない。
結果、ぬるく、あるいは無理矢理褒め合うだけの社会が構成される。
結果、ぬるい作品が温室育ちになり、
そのサイクルがまわること」
のような現象だ。

駄作サイクル、ダサイサイクルのふたつがかかっているんだろう。

自分の作品を攻撃されるのが怖いから、
他人を攻撃しない、
ならば、まだ人の心理としてわかる。
しかし、批評を攻撃だと考える浅はかさが、
ここにある。

批評は攻撃ではない。
むしろ援護である。

ダメなものはダメといい、
良きものは良しという。
それが批評だ。

批評が攻撃だと勘違いするのは、
それが悪意による批評の皮を被った攻撃のときか、
褒めるところが何もない駄作のときである。

つまりダサイクルは、
褒めるところが何もない駄作群を、
淘汰しない。



批評は淘汰である。
斬って捨てるべきものは斬って捨て、
大切に残すべきものは丹精込めて、
惜しいものは個人的に大事な棚にしまう、
淘汰である。

ダサイクルは、淘汰圧に対する、
弱き者の自己防衛だ。


さてと。

僕は美大に行きたかった。
普通の高校や大学で、
他に作品を作っている人は少なくて、
友達になりたかった。
僕が一人で考えてきたことが、
正しかったのか、間違っていたのか、
酒でも飲んで語り合いたく、
ついでにお前の言ってることは間違ってると、
殴り合ったりビール瓶で殴ったりしたかった。
映画サークルや漫研をうろうろしたけど、
本気でプロになろうとする人はいなくて、
楽しくやりたい趣味の集まりで、
僕一人だけ怖い人として浮いていた。

美大なら、もっときちんと批判して、
自分の弱点に向かい合い、
それを克服しようとする人たちがたくさんいて、
日々何がいいのか、世界を淘汰し、
名作だけを残していこうとする人々がたくさんいて、
様々な考え方があって、
しかもヴォルテールのように、
「あなたの意見は間違っているが、
あなたがここで意見を言うことは自由で保障される」
という気風に満ちていると、
勝手に幻想を抱いていた。

しかしダサイクルなんて揶揄が蔓延するほどに、
駄作を作る弱き者どものぬるい連帯があるのだと、
最近知ってがっかりした。

ところで、
僕はそのような理想郷が、
東京のプロの世界にあることを幻想として持っていた。
地方から見たら東京のプロの世界はそう思えるものだよ。

で、もう20年狭い世界でうろうろして気づくことは、
プロに蔓延するダサイクルだ。

たとえば脚本家は淘汰されない。
監督の責任になるからだ。
たとえばプロデューサーは淘汰されない。
儲けがプロデューサーの第一目標になり、
良き作品かどうかは脚本家と監督に一任されるからだ。
あるいは、
良き作品かどうかは、脚本と監督がほぼ全て担うのだが、
役者がダメだった、旬が過ぎた、
などとスタッフを保護する仕組みがある。
あるいは、
こんなものを作らせたスポンサーや投資家こそ批判の対象なのだが、
そんな話は聞いたこともない。

責任者を末端におしつけ、
尻尾を切ることで、
ダサイクルを温存する。


僕は昔は切れ者という評価をされていた。
ダメなものはダメといい、
良きものは良きといい、
それは的確であったからだ。
それは一種の才能かもしれないが、
僕にとっては作品への愛だ。

ところが、ここ10年以上、
僕は業界で怖がられているようだ。
ダメなものをダメというかららしい。
つまりは、少なくとも僕の周りは、
ダサイクルが回っている。

日本のCMを年間集めて賞レースにする、
A C Cという賞がある。
10年前はまだ公平な審査だった。
しかし現在、審査員のサロンにしかなっていない。
審査員と受賞作のスタッフリストを突き合わせればわかることだが、
内輪が内輪に賞をあげる仕組みになっている。
才能あるスタッフだから審査員になる、
という説明も可能だが、
C Mが流行語を連発していた15年前くらいの全盛期に比べ、
C Mそのものが世の中を牽引するほどの才能の爆発は見ていない。

つまりは、落日とダサイクルは相関関係にある。

僕は映画監督になりたくて上京したのだが、
少なくとも角川映画製作部の一部ではダサイクルが回っていて、
詰まらない映画をつまらないと批判することが、
不穏な空気を醸す感じだった。

今の東宝映画は、
本気で面白いものを戦って作るというよりは、
マーケティング理論に則って、
方程式で作ればそこそこ儲かる、
というループに入っている気がする。

東映と松竹はよくわからない。
独立系は生きているのか?


批評は攻撃だって?
ばかやろう、愛だろ。
傷つけられて立ち上がる力がない者が、
傷つけられるのが怖くて、
愛を攻撃だと誤解してるだけだろ。

ちなみに、これはファンの間でも同じだ。
自分の好きな作品が批評されているのに、
愛を攻撃だと勘違いする。
欠点を認めるのが、そんなに怖いかね?

全ては0か1かしか考えない、
デジタルの悪いところだ。
あるいは人を点数化して、
一列に並べられると考える単純な思考のせいだ。
これはいいがこれは悪い、
と考えればよいだけだ。
欠点がないことが完璧なのではない。
他にない完璧があり、欠点をおおえれば、
それは完璧なのだ。


苦しゅうないか苦しいしかないのなら、
それは動物と同じだ。
理性はない。
posted by おおおかとしひこ at 10:18| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。