賛否両論と聞いて、耳を疑った。
否定論者はどういう論調なのだろうかと、
すこし調べてみた。
そこでわかった観客と映画の興行論。
つまり、映画に人は何を求めるのか、ということ。
僕は、昔子供だった。
アニメや特撮が大好きで、漫画も大好きだった。
映画は、その時は大人が見るものだった。
単純に、大人が主役だったしね。
子供は、何を楽しみに見るのだろう。
それはストーリーではなく、
設定や世界観や、強い場面ではないかな。
オモチャが売れること、
それはつまり刺激が強い設定だ。
最強の必殺技、分かりやすい悪、
魔法、この世のものではないなにか、
死ぬ、敵、味方。
裏切りや秘密は難しいから入れないでおこう。
悪は悪、善は善。
正しい者が悪い者を倒す。
かっこいい武器。かっこいい乗り物。
美人のヒロイン。
しびれるような雰囲気。
そういうものに、
子供は夢中になる。
そこに人間や成長や変化はいらない。
反省や克服やくやしさや悲劇もいらない。
子供は、そういう経験をしたことがないから、
理解出来ないからだ。
例えば別れや死はただの不快や他人ごとである。
悲劇だが幸福であるとか、
使命の為に死ぬが許していないとか、
そういう複雑なことを理解できない。
ただただ、
新しい世界が見たいし、
新しい武器が見たいし、
新しいヒーローが活躍する場面を見たい。
それは、
この世に生まれた生き物の、
まだ若い姿なのかも知れない。
この世界を理解してなくて、
この世界を理解したいという本能的欲求を、
満足させたいだけかもしれない。
そういう単純な欲求に、
映画は大人向け過ぎるかもしれない。
なぜなら、
映画やストーリーというものは、
「この世の中がこうなっている」
とある程度知った人向けの、
娯楽であり、文学であると思うからである。
さて、スターウォーズだ。
オリジナル「スターウォーズ」
(シリーズ拡大にともなって、
「スターウォーズ1」、
「スターウォーズエピソード4」
と改題していく)
は、
大人向けの映画であり、
かつ子供むけの映画だった。
正確に言えば、
子供むけに作ったが、
偶然ルーカスの無意識が入り込み、
偶然大人の鑑賞に堪えうる映画になった。
子供むけの要素は、
冒頭の巨大戦艦の偉容、
姫を助ける王道のストーリー、
荒くれ者と野人コンビの力を借りる、
銃とチャンバラと超能力、
砂漠・酒場・宇宙空間・要塞など目まぐるしい舞台装置、
飛行機のエースパイロットになる要素、
かっこいいオリジナル悪役、
狭い通路を危険飛行し、針の穴を通す大逆転、
燃える音楽、
などである。
大人向けの要素は、
自分が何者になればよいのかわからなくて、
世界から拒絶されていた若者が、
目標を見出して冒険を選択する、
という部分だ。
よく見ると、
大人成分は少な目で、子供成分てんこ盛りである。
しかし、大人成分が、
(偶然)冒頭部にきていることで、
これは、
「行き場のない若者が、アイデンティティを見出す物語」
になっている。
つまりは、青春映画と同じ文法になっている。
おそらくこれは偶然だ。
なぜなら、
以後の2、3
(シリーズ拡大後は、それぞれエビソード56)
では、そのアイデンティティの物語は、
継承されていなかったからだ。
若者のアイデンティティ探しは、
70年代アメリカ映画の流行スタイルであった。
ルーカスが狙ってそうしたわけではなく、
ルーカス自身がただそうした若者だったから、
無意識にその要素が入っただけだと、
僕は考えている。
スターウォーズは、
1だけ偶然大人要素が入った子供むけ映画で、
あとは子供要素だけのシリーズだ。
新三部作
(エピソード123)
に、僕は失望した。
中学生当時夢中になったスターウォーズが、
「まだ子供むけだった」からだ。
エピソード1公開時、
僕は社会人一年生で、
大人向きの映画を見ていて、
映画監督になりたかった。
勿論かつて子供だったから、
ポッドレースには興奮するし、
ダースモールの殺陣は最高だったし、
あのテーマ曲は最高だった。
しかしそれは全部、
新しいおもちゃでしかなく、
映画ではなかった。
(グッズはいっぱい買ったよ)
2も3も、輪をかけて子供向けで、
激情でブーイングした記憶がある。
「暗黒面に落ちる」という究極の神話になる期待の部分が、
まったく面白くなく、感情移入に値しなかった。
記号のやり取りだけで、
この世界を前提としたことはなかった。
漫画より漫画的で、
そういうものに大人は物足りないのだ。
で。
スターウォーズは子供向けか、大人向けか、
という極論をしようとしているのではない。
僕は、
子供向けのものにこそ、
この世界の理が分かるように、
きちんとつくるべき、
という立場である。
僕はアニメや特撮が大好きな子供だったけど、
長じてみれば、
あれはあれの比喩で、子供にもわかりやすく世の中の本質を、
うまく言い表していたのだな、
という発見があったりする。
しかしそれは昔の良作にかぎる、
というのが、ようやく本題である。
マーケティングが、それを壊した。
そうなる前は、
たとえ子供がみるものでも、
道徳的なことから世界の仕組みまで、
きちんと作りこむべき、
という骨のある作り方をしていた。
(ものもある)
しかし合理化、という名のもとに、
そういうものはコスパが悪いと駆逐されてゆく。
90年あたりかな、
コンビニが普及し、
POSなるものが導入され、
「売れるものしか置かない、売れないものは置かない」
が徹底しはじめてからかな。
それまでは、
「あると便利だろう」「ないと困る意外なものがある」
がコンビニにあった。
古い商店街のやり方だった。
若い人はしらないだろうが、
初期のコンビニには、
サングラスやオセロやトランプが売っていた。
(もちろん初期に認知させる客引き品だったかもだが)
逆に、そういう、
「あると便利だろう」「ないと困る意外なものがある」
を置いていた普通の店舗を、
そういうものを置くことでつぶす戦略だったのかもしれない。
さて。
「売れるものしか置かない」
という方法論は、
短期的には有効だけど、長期的にはつぶれる。
次々に欲しいものが出てくればいいけど、
「何が欲しいのかわからない」
という状態にいずれなるからだ。
なんとなくコンビニにいっても、
とくに欲しいものに出会えない経験はあるだろう。
それは、
「口当たりはいいけど、
ほんとうに必要な栄養を取れない、
マクドナルド」
みたいなことになっていると思う。
「いや、そうではない、
人間にとって必要なものを、
織り込むべきだ」
と主張する人もいただろうが、
合理化によって淘汰された、
といってもいいだろう。
これはコンビニの話ではない。
映画も同じだと言っている。
マーケティングは、
「今売れているもの」を調べることはできるが、
「今ないが絶対売れるもの」や、
「今は知られていないが、認知されれば浸透するもの」や、
「短期的には数字には表れないが、
50年単位で必ずあるべきもの」や、
「棚にあることで、
我々はこういうものをいいと考えていると主張し、
それがブランドや次世代の顧客や市場をつくる」
というものを扱えない。
(ほんとは扱えるのかもしれないが、現場で聞くことはない)
ようやくスターウォーズだ。
スターウォーズは、
映画にマーケティングを持ち込んだ、
興行史的に重要な作品である。
つまり、
「売れさえすれば、
子供がよろこぶ要素だけ詰め込んで、
人間を描くなどといった大人要素は不要」
としたのだ。
「映画は文学だ。売れさえすれば正義か。
2や3は単なるオモチャのプロモーションではないか」
という議論が、おそらく当時もあっただろう。
しかし、もうけという絶対が、
その議論を押しつぶしてゆく。
それから何十年。
売れれば正義、が価値観の支配者になった。
この世に価値のあることや、
教え伝えるべきことに、
重きを置かなくなった。
だから、映画は、内容的に衰退したと、
僕は考えている。
勿論、ほそぼそとやっている人たちもいるだろう。
しかし、
ほんとうはビッグバジェットで、
子供が喜ぶ世界で、
大人が満足する人間を描くのが、
映画の理想だと僕は思う。
それが、
ビッグバジェット=マーケティングのオモチャ、
低予算=志はあるけどしょぼい
の二極化しているのが、
現在のような気がする。
それは何もスターウォーズのせいではなく、
世の中がそう流れただけなのだろう。
でね。
SW8否定派の、多数は、
映画を大人がみるものだと考えていない、
子供なんだよね。
スターウォーズはこうじゃない、ってね。
あんたのいうスターウォーズは、
561237でしょ。
僕には、
タトゥーインの二重太陽の夕日に、
自分が見つからなくて、どうしようもなく孤独だった、
一人の若者がオリジナルスターウォーズなんだよ。
あとの以降は、
全部子供のオモチャなんだ。
SW8は、
そういうマーケティングの檻から、
映画に奪還した、稀有な作品である。
マーケティングは、
僕の言葉でいうと、ガワだ。
東急のSW8キャンペーン広告を見るがいい。
キャッチコピーは「善か、悪か。」だぜ。
あほか。今西暦何年だ。しかも内容を的確に表してないやんけ。
それがSW8だろうが、そうでない大作だろうが当てはまる、
糞コピーやないかい。
つまりは、マーケティングなんて、
この程度にしか、IQを使っていない。
小学生レベルの知性だということ。
SW8は、賛否両論だという。
否の意見が、オモチャがオモチャじゃないと駄々をこねる、
子供ばかりかどうか、
しばらく調べるつもりだ。
2018年01月06日
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