ビジュアルでも台詞でもアクションでもシチュエーションでもいい。
とにかくメモしよう。
次にすることは、
「なぜそうなったか?」を考えることだ。
ストーリーというのは、
点ではなく線である。
シーンだけ、台詞だけ、ビジュアルだけ、
シチュエーションだけは、
点であり線ではないから、
ストーリーではない。
だからそれを線にするのだ。
簡単なことだ。
「なぜそうなったか」、
その前を考えればいい。
なぜそのシチュエーションになったのか、
なぜその台詞を言ったのか、
なぜそのアクションや行動をするのか、
なぜそんなビジュアルになったのか。
線とは、因果関係のことだ。
ある点がどうやって出てきたのか、
その前があり、
それがあるからその点がある、
という因果関係があり、
それがストーリーの種になるのである。
これが下手な人は、
「無理がある」ものしか作れない。
そのシチュエーションになるには無理がある。
そういうことをそこで言うのは無理がある。
そのアクションをするのは無理がある。
そのビジュアルをするのは無理がある。
逆に上手な人は、
自然にそのシチュエーションになってゆく。
自然にその言葉が心から出てくる。
自然にそうしてしまう。
自然と、当然のように、そのビジュアルに落ち着く。
たったこれだけの違いなのだ。
そしてそれが自然であればあるほど、
次にどうなるかも自然に判る。
私たちの住んでいる世界と大体同じだからだ。
その自然な線を、流れという。
つまり、ストーリーを作ることが下手な人は、
流れを自然に出来ない。
無理がある流れだったり、
唐突に流れが変わったり、
それが途切れたりする。
おそらくは、その場の思いつきで接続するからだ。
そうではない。
ストーリーとは一続きの流れである。
勿論結節点、ターニングポイントがあり、
一本道ではなく、
ジェットコースターのように起伏がある。
しかしそれらは、「全て繋がっている」
のような構造をしてるはずだ。
まだすべてを思いついていないとき、
新たなアイデアがやってきて、
空白が埋まることがある。
しかし、下手な人は、
「それがそうなるには無理がある」ようにしてしまい、
上手な人は、
「それがまるで最初から計画されていたかのように、
自然にそうなる」ようにする。
高速道路に合流するのに、
ぶつかりながら合流するのか、
自然にすっと入るのかの違いだね。
その滑らかさとは、
「なぜそうなったか」が、
自然に無理がないようになっている、
ということだ。
その接続には無理があるとき、
二種類のやり方がある。
1. 無理がない程度に、その思いつきを変形、アレンジする
2. うまく接続できる第三の何かをつくる
思いつきをA、それまでの流れをBとすれば、
B→Aに無理があるとき、
B→A'のようにAをうまいこと変形するか、
B→C→Aのように中間補助線Cをつくるか、
の二択だということ。
勿論、B→C、C→Aの線が、
新たに無理があるようなら、
同様に自然になるように繰り返すと良い。
こういうのが下手な人は、
「人の言うことを聞かずに突っ走るキャラ」
「空気読まないキャラ」
「勝手なキャラ」
「狂ってるキャラ」
などに無理な部分を担当させて、
強引に展開する逃げを打つことが多い。
キャラが勝手に動き出す、
なんてのは殆どは嘘で、
あなたの無意識の思いつきを、
キャラが先回りしてるだけのことである。
その思いつきは、天からの授かりものである。
まだ思いつきに過ぎないが、
革命を起こせるアイデアかも知れないし、
雑魚の戯言かも知れない。
全ては、無理のない展開に出来た時に、
その破壊力を測定できるだろう。
そして、アイデアを思いつくのは誰でもできる。
それを上手に無理なく繋いでいくのが、
私たちの技術と経験だ。
手慣れてくると、
「ここにこういう感じのアイデアがあれば、
うまく接続できるのに」
と、神様にそのアイデアの具体的にはまる場所を指定し、
その空白について延々と考える、
みたいなことができるようになる。
それは、「接続慣れ」みたいなことだね。
まあ、まずはメモを取るのだ。
一行目に見出しになるような走り書きを、
一枚全部にその詳細を。
別の紙に、それの接続を。
こうして、ストーリーは生まれてゆく。
2018年01月07日
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