2018年01月09日

ログラインの期待に応えているか

ログラインとは要するに一行あらすじだ。
全体のプロットを書く前に、一言でいうとこういうこと、
と把握するために書くし、
途中で話を見失わない為にも確認するし、
あるいは途中で話を変えた時、
新しくログラインを変えて、
全体が歪んでないか確認するのにも使う。

で。
そのログラインとは、
全体の骨格でもあるのだが、
見る人の期待でもあるんだよね。


たとえば勧善懲悪とは、
「善が悪を倒す」とログラインを書ける。
(これじゃ物足りないから、
善の事情とか、ストーリーのヤマを足してもいい)

ということは、このログラインだと、
「善が悪を倒すときにスッキリする」
「その逆で、いかに悪が悪どいか、腹立つぐらいの状況になる」
「善に感情移入し、悪を倒すときにカタルシスを感じる」
などが、
観客の期待だ。

それに応えられていないものは、
ストーリーとして失格だ。

あるいはもう少しログラインに、
主人公の事情やヤマの情報が足してあれば、
「今までの勧善懲悪と違う、
新しい要素」が期待に上乗せされる。
勿論、これに応えられていないものは、
ストーリーとして失格だ。

ログラインは一種の予告編である。
結末まで書いたって構わない。
それが分かっていてなお面白いのがストーリーだ。
「主人公は死ぬのか?」を、
「主人公は死なないだろう」を分かっていても、
楽しめるのがストーリーだ。
楽しめないのは、要するに下手なのだ。

殆どのラブストーリーは、
「男が女に出会って恋を成就する」
(ボーイミーツガールストーリー)とログラインを書くことができる。
男女を入れ替えてもいい。
ついでに、各人物の事情を盛り込んで、
二行や三行にしてもいい。

これで期待されるのは、
「運命的な、ドラマチックな出会い方」であり、
「恋はうまくいくのかいかないのか」のヤキモキであり、
「恋がうまくいくときの全能感」だ。

勿論、ラブストーリーと勧善懲悪は、
大抵組み合わせることが出来て、
色々な要素を含んだものがモダンだとも言える。
いずれにせよメインを決めるべきで、
そのメインがログラインになる。
勧善懲悪がメインなのに、
ラブストーリーパートのほうがよく出来ているのなら、
そのログラインはラブストーリーを中心に書き換えた方がよい。

メインとは、
あなたのやりたいこととか、
スポンサーが合意したことではなく、
観客が最も楽しめる、
出来の良い部分のことである。

それがストーリーパートでなくて、
アクションやデザインであるとき、
それはストーリーじゃなくてガワだと僕は批判する。



どうしようもなかった漫画、
ファイアパンチは、
なぜどうしようもないのか?
それは、一話で示した、
ストーリー全体のログラインに、
何一つ答えていないからだ。

一話で示されたログラインは明快な、
王道的ダークヒーローもので、
「不死の能力者が、
消えない炎を克服し、
妹の仇を取る為に、
氷の魔女に閉ざされた世界を行く」
であったはずだ。

これから期待されることは、
「復讐完遂のカタルシス」
「復讐できるのか出来ないのかというハラハラ」
「暗い情念のダークヒーロー」
「不死を生かした、能力者同士のバトル」
「氷の魔女に閉ざされた世界の、英雄的、
もしくはダークヒーロー的な解放」
であったはずだ。

えっと、どれに答えたかな?

復讐完遂は、「気づいてたら殺してた」だった。
復讐への旅は、一直線すぎて迷路になっていなかった。
主人公アグニは暗い情念などなく、
度々記憶喪失になり、もはや何のために生きているのか不明だった。
不死を生かしたバトルはいくつかあったが、
能力者同士がその能力を十分に生かした、
素晴らしいバトルはなかった。
(ほとんど1ターンで終わってたし)
氷の魔女はいなくて、
ビッグマザーユダのご都合で世界は救われた。
かと思いきや放射能があり、
かと思いきや地球は割れてた。


つまり、ファイアパンチとは、
「期待をことごとく外す」
という芸人の芸であったのだ。

期待させるだけさせて、
それをことごとく外す、
ハシゴかけアンドハシゴ外し。
それがファイアパンチだ。

昔、音楽を作っていた知り合いがいて、
「乗りかけた所に変拍子にして、
延々乗りポイントを外していく音楽」
を作っていた。
「それの何がおもろいねん」
と聞いたら、
「乗りかけたら崩れるのがおもろい」
と答えていた。

それはつまり、
ハシゴ外しの面白さであり、
それは、
ハシゴをかけて期待した人を、
裏切って楽しむ、
間違ったコミュニケーションだと僕は考える。

表現は全能感を伴う。
みんなを集めて注目を浴びるからだ。

だから、
注目を裏切ってやれ、
と、逆張りをして悦にいるのも、
また全能感なのだろう。

それは間違っている。

民草を踊らせることが、本当の全能感だ。
もっというと、
民草の踊りと一緒に踊るのが、
本当の全能感だ。
民草が踊ろうと思っているところに、
逆張りをして踊らせないのは、
悪意しかない。

ということで、
ファイアパンチが、
いつかちゃんと完結すると期待していた人達は、
あの肩透かし意味不明最終回に戸惑い、
悪意を感じ、
怒りの鉾で吊るし上げにかかっている。

結局は、
期待に応えるのが怖くて、
逃げ出しただけだ。
それは、
前振りした期待感を、
満足させられるだけの自信がないからだ。

ちょっと上手いこと言うやつは、
大抵こうだ。
口先だけで期待させて、
結局何もしない。
そういうのを、詐欺という。



さて。
ログラインとは、期待である。
あなたはそれに、
もうお腹いっぱい!と大満足させる、
ストーリーを書かなくてはならない。

ログラインだけ面白くたって、
肝心のストーリーが面白くないなら、
何の意味もない。


(まあ世の中には、出来の悪いのを、
出来のいい予告編で釣る、予告詐欺は沢山あるんだが)
posted by おおおかとしひこ at 12:52| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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