他人を幸せにするだけでもだめだ。
自分を幸せにするだけでもだめだ。
リアル社会と同じで、
全員が幸せになるのがベストということ。
四文字熟語では、
自他共栄とか自他共楽などという。
急に宗教くさくなるね。
でも、以下のダメな例を見ると、
そりゃそうかと思えるよ。
・単に他人を助けるだけ。
それは仕事の範囲だ。
警官や消防隊や軍隊は他人を助けるヒロイックな職業だが、
あくまでそれは自分の能力を普通に使う、
日常茶飯事のひとつだ。
事務のおばちゃんが伝票を切るのと同等である。
それは日常茶飯事であり、物語ではない。
もしそんなスーパーヒーローに助けられる話があるとしたら、
主人公はスーパーヒーローではなく、
助けられる側である可能性が高い。
・自己犠牲で他人を助けるだけ。
痛みのない「他人を助ける」だと、
ドラマチックに欠けるという直感が働くのか、
こういうラストにもっていくパターンは、
まああったりする。
でもこれで満足するかなあ。
「マトリックス・レボリューションズ」(3)
のラスト、ネオが死ぬのは良くなかったよね。
自己犠牲は、現実では尊いかも知れないが、
物語のなかでは魅力に欠ける。
感情移入していればなおのこと。
それでもラストに死ぬ「あしたのジョー」は、
「真っ白に燃え尽きたい」という、
主人公の望みが叶えられたハッピーエンドだからこそ、
人の記憶に残った。
最初からジョーは乾いていた。
力石の死後も乾いていた。
だから乾かなくなった、が終わりなのだ。
もし自己犠牲をラストに持ってくるなら、
それが最初からあった、
「主人公が幸せになる方法」だとすれば、
問題ないかも知れない。
マトリックスのネオは、
「これが本当の世界でない」
と疑問を感じていたのが最初だから、
その帰結として自己犠牲というのは、
辻褄が合わない。
だから違和感があるラストになっている。
逆にいうと、その辻褄を合わせること、
すなわち当初の主人公の望みが叶うことが、
ストーリーである。
・自分からは何もしない癖に、他人に幸せにしてもらう。
出たメアリースー。
これは作者の怠惰な無意識の現れで、
作者だけの自己満足(サービスされたい)であることは、
既に沢山書いている。
他人ののび太はケツを蹴り上げたくなる。
私はのび太だがお前は違うと、全員が思っている。
・自分だけ幸せになり、他人は全員不幸。
ただの悪人じゃねえか。
でも最近、不幸に追いおとす他人は、
そもそも悪人である、
というパターンは多い。
悪人なら全員不幸にして構わないという言い訳で、
そいつらを不幸に追いおとすことに、
暗い喜びを感じる話は、
ダークファンタジーなどと言う。
勿論ファンタジーだけでなく、
現実を舞台にしてもよい。
もし不幸にされる人々が、
悪人でなければ、
主人公も悪ということになる。
これはなんか気持ち悪い。
勝手に修羅の国で殺し合いしてれば、
となってしまう。
修羅の国が好きな人だけの、マイナー作にとどまるだろう。
そういうこともなく、
ただ主人公が幸せになって他人が不幸になるなら、
それはなんだか面白くない。
視野が狭い印象を受けるよね。
・全員不幸に。
短編ならよくある。
でも二時間付き合わせて全員不幸はないよなあ。
時間を損した感じになるよなあ。
・主人公とヒロインが結ばれ、あとはしらん。
セカイ系。
セカイ系の問題は、主人公とヒロインの、
第1者第2者はいるが、第三者がいないことだ。
つまり客観性を欠いている。
つまり、バカップルは勝手にやってろとなる。
所構わずキスするカップルとセカイ系は同一の心理である。
メアリースーと同じで、
気持ちいいのは作者だけだ。
そうそう、ファイアパンチのクソエンドがこの例だ。
などなど、
色々な裏のパターンを見る限り、
主人公は自らを幸せにし、
かつ皆を幸せにすることが、
ベストだと思う。(背理法)
(ちなみに「バタフライエフェクト」という傑作では、
ひとつだけ例外のあるラストとなっている。
もうそれがたまらなくいいのだ。未見なら是非)
自分一人で幸せになっても、
自分が他人に助けられるテイクだけでも、
他人を助けるギブだけでも、
面白くない。
ああ、なんかめでたしめでたしだねえ、
見て良かったなあ、
というカタルシスの為には、
最終的に全員が幸せになるのがよい。
それを解決したのが主人公だ。
そういうものが、ストーリーであるべきだと思う。
つまり主人公は、
最終的には自力で、
自分の問題を解決し、
かつ、世界の問題(世間の問題)も、
同時に解決しなければならない。
勿論他人の助けを借りてもよいが、
概ねその人がいたから全部が進むべきだ。
これをまず思いつかなければ、
ストーリーなんて全部オナニーだよ。
難しいね。
だから尊い。
2018年01月17日
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