数学や絵画や音楽や体育は、子供から天才が生まれることがある。
普通の人がかかるステップを、
どんどん飛ばしていけるからだ。
しかしストーリーテリングはそうはいかない。
なぜなら、ストーリーを作るには人生経験がいるからだ。
数学ならば、
ギリシャ時代から現在までの、
全ての定義と証明を理解すればよい。
まあ殆どは無理だから、専門の分野に分かれる。
それにしても基礎的なものならば、
解析(大学レベル)までやっときゃ応用は効く。
絵画も同じくで、
全ての画材に馴染めればよいが、
大抵は水彩とか油絵とかの得意な専門に分化するが、
デッサンやクロッキーや、
色彩感覚や新しい形へのセンスなどが鍛えられていれば概ね応用は効く。
音楽と体育は詳しくないのでパス。
それにしても、
これまでの人類の積み上げと、
専門分野と、
基礎と、
他の子よりマスターが早い子は、
ばんばん先をやらせたほうがいいということは、
同じだろう。
(体育は体づくりが入ってくるが)
じゃあストーリー作りも同じだろうか?
これまで人類が作ってきた、
全ての名作を見て、
脚本論で教えている全てのテクニックをマスターし、
他の子がマスターするよりも早く、
ばんばん教えていくと、
天才ストーリーテラーは出来上がるのか?
僕はそうじゃないと考えている。
何故なら、ストーリーとは、
「誰が見ても同じ感覚を受ける人生」
を描かなければならないからだ。
逆にいうと、
それができない作者は、
「自分だけの感覚をストーリーで表現する、
独りよがりのストーリーテラー」になる。
数学は、客観的な言葉、数式で語られる。
国、文化、時代、作者、
関係なく共有が可能である。
(実際のところは、数学は英語文法で考えたほうがわかりやすく、
膠着語である日本語で理解すると、
混乱を来たすことがある。
だから日本人と韓国人は、母国語で数学をやることに、
かなりのハンデがある。
僕がそれに気づいたのは大学2年のときで、
うーん手遅れだなと感じたものだ)
絵画だって、皆の前に出されたときに、
(解釈は様々であるにせよ)
客観化は一発だ。
ほかにありようのない、物理的なその絵しかない。
音楽もスポーツも同様だ。
しかしストーリーは、
これらと違い、
「解釈されて初めて完結する」
という特徴がある。
どういうことか。
絵や音楽は、絵的な感覚や音的な感覚の共有だ。
そこに意味は存在しなくてよい。
これは〇〇を意図しているとか、
〇〇を再現しているとか、
そういうのは補助線に過ぎず、
その色や形が気持ちいいか、
その音やリズムが心地いいかが本道だ。
ところがストーリーは違う。
勿論設定や展開や落ちの、
心地よさや新しさはあるものの、
それはあくまでガワにすぎず、
「それは一体どのような意味か」が、
ストーリーが共有される、
ということなのだ。
「意味が共有される」というのは、
たとえば演説やブログも同様だ。
これらは意味を明示する。
ところがストーリーは逆で、暗示をする。
とある事件を主人公たちが解決する、
という明示をしておきながら、
「これは実はこういう意味だ」を暗示する。
分かりやすい例は、
正義が悪を倒すことを明示して、
「悪は良くない、最終的に正義が勝つのだ」
を暗示する、
勧善懲悪パターンのストーリーだろう。
この、意味の明示と暗示が面白いかどうかが、
ストーリーが面白いかどうかを決定すると、
僕は考えている。
だから、人生経験がこれには必要だ。
そもそも、
とある事件を解決するという、
明示されたストーリーを、
ファンタジーやSFまで飛ばせば可能かもしれないが、
リアル世界を舞台にしたとき、
子供がそれを書くことは困難だ。
社会の常識を学んでいないからだ。
子供がファンタジーを好むのは、
リアル社会を知らないからである。
もっとも、優れたファンタジーは、
全く架空の社会の話をしているのではなく、
リアル社会を反映しているものだ。
時代劇やSFも同じで、
我々は架空の世界を楽しみながら、
それをリアル社会を見るための鏡に使うのである。
(これは、ディズニーのSFが何故失敗作ばかりなのか、
ということの理由だ。
ディズニーのSFは、リアル社会を反映する鏡としての機能が、
ほとんどない)
勿論、子供のうちから裏社会のボスになってるとか、
最初から大人社会の一員ならば、
早熟なストーリーテラーになるかもだが、
まあ実人生が忙しくて、書いたり名作をしたりする暇はないだろう。
つまり、
ストーリーは大人の常識が身についてないと書けない。
こういうことをしたら周りはどう思うのか、
こういうことをしたら普通どうなるのか、
こういうことのためには普通何が必要なのか、
こういうことがあったら普通人はどう思うのか。
明示されたストーリー進行は、
こういうことをベースに作られる。
ある程度の人生経験がないと、
客観的にこういうことを判断できないだろう。
社会人じゃなくてもいいが、中学生では無理かもね。
これらは明示されたストーリーの方だけど、
もっと大事なのは暗示された意味の方だ。
これは全体としてどういう意味になるのか、
結局何だったのか、
最初から結論は提示されていて見事に着地した、
などの、暗示による意味は、
それこそそういうことを沢山する、
リアル社会の人生経験が必要だ。
「行けたら行く」という台詞は、
「来ない」という意味だ、
という読解が出来ないと、
明示と暗示の関係は理解できないだろう。
早熟なストーリーテラーはたまにいる。
壮絶な人生を早期に経験した子だ。
しかしそれは、「その経験」の範囲内でしか、
優れたストーリーを作ることができない。
ストーリーを作り続けることは、
バラエティ豊かな体験を提供し続けることだ。
良く作家は「ネタ」というが、
それは経験とか体験のバラエティのことだ。
ネタ探しとは、そういう体験を積むことだ。
浮気は芸の肥やしというのはそういうこと。
新しいリアルを体験することになる。
新しい修羅場を経験する。
経験してないことは、じゃあ書けないの?
いいや。
人殺しの話だって書けるよ。
「それがどんな体験に似ている」と書くことで。
人を恨む気持ち、
引っ込みがつかなくなり極端に走る誤り、
計画的な正義の実行、
ある信念の高揚、
罪の意識とのマゾヒズム、
などに置き換えればよい。
それが人殺しを経験してない人にも分かるように書けばいいだけのこと。
我々はそれでリアルな想像をする。
つまり、物語とは、
我々に上手に未知を想像させるのだ。
それが出来るためには、
普通こうしたらこうだよね、という、
色んなものを疑似体験したり直接体験したりして行かなければならない。
つまりそれは、ざっくり言うと人生経験ってこと。
独りよがりにならないためには、
そういう平衡感覚を持つことが重要で、
それは子供には出来ない。
ということで、
早熟のストーリーテラーが出来ることは、
ファンタジーの奇妙な絵や音に限られ、
新しいストーリーや意味に到達はしないだろう、
というのが僕の見解だ。
人生二周目の芦田愛菜とかなら、
また違うかもしれないが。
2018年01月19日
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