書くことの本質的な話なので、
脚本論にて。
僕は、そもそも、
「言語が思考より遅いからだ」
と言ってみる。
少し前に単純なタイピングの話を書いたけど、
さらに深く掘ってみる。
たとえば、
筆の勢いに任せて書いた文章をリライトする時、
頭の中では考えていたことでも、
その文章に書かれていないことがある、
ということが、
ほんとによくある。
執筆中では消えないこと優先で、
なんとかして書きとめようとするから、
とりあえず書く、を優先しがちで、
「そこにあるものを十分に描かずに、
次へ行ってしまう」ということがよくある。
逆に、
「なかなか言葉にならなくて、
うろうろと回りをうろついてしまい、
言葉や説明だけがダラダラと増えていく」
ということもある。
どちらも、「思考が言語より速い」からではないかな。
思考すること、イメージすることは、
ほとんど一瞬だ。
(実際には、思考開始から、
まとまりのある思考に至るまでがかかり、
出てくるのは一瞬)
しかし、それを「言葉で」示そうとすると、
それよりも時間がかかってしまい、
どうしてももたつく。
それが「書く」ということである。
脳内直結器が出来るまでは、
この書くという行為が最短距離で、
客観化する行為である。
おそらくだが、
脳内直結器で思考をプリントすると、
歪んだ夢のような、フィルタに漉していないものが出てくると思われる。
人は、脳内のそういうものを、
「言語で」整理するのである。
だから、
「自分の思考に手が追いついてなくてもどかしい」
というのは、
あなたの書く力が足りないから起こるのではなく、
「全ての書く行為」で起こることだと、
僕は考えている。
そう考えたらしめたもので、
「今は湧いてくる量が多いから、
とりあえず書いて、
あとで詳細に描写していこう」とか、
「あるはあるのに言葉でうまく表現できてないから、
腰を据えてベストの表現に煮つめよう」とか、
思考と言語の関係を監視して、
今の態度を決めることができるようになる。
文豪ほど、スラスラ書けると思う?
文豪ほど、思考と言葉の間の苦しみを行き来してるんじゃないかな。
つまり、
「上達すればこの苦しみは軽くなる」
というアプリオリな先入観は違う。
「出来る人ほど苦しみは大きくなる」だよ。
そのかわり、出来る人ほど喜びは加速度的に上がってくけど。
最近親指シフトを紹介するページをよくみるのだが、
「1.7倍書くのが速くなる」なんて、
書く経験のないやつを騙す言葉が多くて辟易する。
タイピングが1.7倍速くなっても、
書く速度自体は大して変わらない。
10時間が8時間くらいにはなるけど、
1/1.7、4時間40分にはならない。
何故なら、手を動かしている時間よりも、
思考を形にする時間、
その思考を言語にする時間の方が、
はるかに長いからだ。
純粋コピータイピングの時間は、
勿論1/1.7になるかも知れないが、
あなたはテキスト変換器ではない。
思考することと書くことは、
実はずいぶんな差がある。
前記事の「じゃんけんのルール」が、
あんなに長い回答になるとは、
あなたは思っても見なかったはずだ。
しかし言葉による説明ってのは、
あんな風になるものだ。
言葉は万能ではない、ということを知った上で、
言葉で書くという道具を、使いこなすべきである。
で、
「親指シフトをマスターして、
10時間の執筆が4時間40分になりました!」とか、
「一日一万字が、一日17000字になりました!」
なんて宣言した人は、
一人もいないことに注目されたい。
結局、「思考を現実化する道具」としては、
qwertyだろうが親指シフトだろうが薙刀式だろうが手書きだろうが、
対して変わりゃしない。
もっとも、効率という点において、
qwertyローマ字よりも親指シフトのほうが効率がいいし、
親指シフトよりも薙刀式のほうが良いし、
薙刀式より手書きの方が効率が良いと考えている。
そもそも、書くという行為はどういうことか、
ここまで踏み込んで書いてる人がいなかったので、
書いてみた。
結局、言葉を書くことは、
いつでも苦しいのだ。
だから、宝石のような価値がある。
(手軽なゴミもたくさん出来るけど)
2018年01月20日
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