2018年01月20日

なぜ考えに手が追いつかないのか?

書くことの本質的な話なので、
脚本論にて。

僕は、そもそも、
「言語が思考より遅いからだ」
と言ってみる。


少し前に単純なタイピングの話を書いたけど、
さらに深く掘ってみる。

たとえば、
筆の勢いに任せて書いた文章をリライトする時、
頭の中では考えていたことでも、
その文章に書かれていないことがある、
ということが、
ほんとによくある。

執筆中では消えないこと優先で、
なんとかして書きとめようとするから、
とりあえず書く、を優先しがちで、
「そこにあるものを十分に描かずに、
次へ行ってしまう」ということがよくある。

逆に、
「なかなか言葉にならなくて、
うろうろと回りをうろついてしまい、
言葉や説明だけがダラダラと増えていく」
ということもある。

どちらも、「思考が言語より速い」からではないかな。

思考すること、イメージすることは、
ほとんど一瞬だ。
(実際には、思考開始から、
まとまりのある思考に至るまでがかかり、
出てくるのは一瞬)

しかし、それを「言葉で」示そうとすると、
それよりも時間がかかってしまい、
どうしてももたつく。
それが「書く」ということである。

脳内直結器が出来るまでは、
この書くという行為が最短距離で、
客観化する行為である。

おそらくだが、
脳内直結器で思考をプリントすると、
歪んだ夢のような、フィルタに漉していないものが出てくると思われる。
人は、脳内のそういうものを、
「言語で」整理するのである。


だから、
「自分の思考に手が追いついてなくてもどかしい」
というのは、
あなたの書く力が足りないから起こるのではなく、
「全ての書く行為」で起こることだと、
僕は考えている。

そう考えたらしめたもので、
「今は湧いてくる量が多いから、
とりあえず書いて、
あとで詳細に描写していこう」とか、
「あるはあるのに言葉でうまく表現できてないから、
腰を据えてベストの表現に煮つめよう」とか、
思考と言語の関係を監視して、
今の態度を決めることができるようになる。


文豪ほど、スラスラ書けると思う?
文豪ほど、思考と言葉の間の苦しみを行き来してるんじゃないかな。

つまり、
「上達すればこの苦しみは軽くなる」
というアプリオリな先入観は違う。
「出来る人ほど苦しみは大きくなる」だよ。
そのかわり、出来る人ほど喜びは加速度的に上がってくけど。



最近親指シフトを紹介するページをよくみるのだが、
「1.7倍書くのが速くなる」なんて、
書く経験のないやつを騙す言葉が多くて辟易する。
タイピングが1.7倍速くなっても、
書く速度自体は大して変わらない。
10時間が8時間くらいにはなるけど、
1/1.7、4時間40分にはならない。

何故なら、手を動かしている時間よりも、
思考を形にする時間、
その思考を言語にする時間の方が、
はるかに長いからだ。

純粋コピータイピングの時間は、
勿論1/1.7になるかも知れないが、
あなたはテキスト変換器ではない。


思考することと書くことは、
実はずいぶんな差がある。
前記事の「じゃんけんのルール」が、
あんなに長い回答になるとは、
あなたは思っても見なかったはずだ。
しかし言葉による説明ってのは、
あんな風になるものだ。
言葉は万能ではない、ということを知った上で、
言葉で書くという道具を、使いこなすべきである。

で、
「親指シフトをマスターして、
10時間の執筆が4時間40分になりました!」とか、
「一日一万字が、一日17000字になりました!」
なんて宣言した人は、
一人もいないことに注目されたい。

結局、「思考を現実化する道具」としては、
qwertyだろうが親指シフトだろうが薙刀式だろうが手書きだろうが、
対して変わりゃしない。
もっとも、効率という点において、
qwertyローマ字よりも親指シフトのほうが効率がいいし、
親指シフトよりも薙刀式のほうが良いし、
薙刀式より手書きの方が効率が良いと考えている。

そもそも、書くという行為はどういうことか、
ここまで踏み込んで書いてる人がいなかったので、
書いてみた。


結局、言葉を書くことは、
いつでも苦しいのだ。
だから、宝石のような価値がある。
(手軽なゴミもたくさん出来るけど)
posted by おおおかとしひこ at 16:25| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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