一般論なので脚本論カテゴリにて。
どうして板書をノートに写すことが、
勉強なのか?
写メで撮ったらダメなのか?
ダメなんだよね。なんでか。
「いまだにノートで手書きしてるやつは、
効率が悪い。デジカメで撮って、
Evernoteにでも貼ればいいじゃないか」
と考えるやつは、
頭が悪いやつだ。
仕事でも、打ち合わせしたホワイトボードを写メり、
あとで確認するやつがいる。
これも頭の悪い、仕事ができないやつだと思う。
勉強は、何文字書き写すかじゃない。
何文字「頭の中で完全に理解して応用出来るか」
である。
だから、別に写メらず、書きうつさなくたっていい。
話をパーフェクトに理解して、
全て応用が効けば、ノートもEvernoteもいらない。
しかし実際のところ我々は全てを覚えられないから、
ノートに覚えてもらう。
こういう意識でノートをとってるやつは、
頭が悪い。
ノートは授業の記録ではない。
「思考を書くことによって追体験する」
ために、私たちは書くのである。
書くことは、思考を具体的な言語に落とすことである。
我々は書くことによって、
逆に言語になる前の思考を追体験する。
その思考を自分のものにするのが、
勉強というものだ。
自分の発想や思考にないもの、
それを、書くことによって言語化し、
自分の中に入れ、かつ出せるようにする。
勉強とはつまり、自分にないものを、
言語によって獲得する行為である。
これには書くのが一番手っ取り早い。
出力を「自分でする」からだ。
タイピングはいいかな?
僕は手書きをすすめる。
手書きは、自分でレイアウトをしなければならない。
どことどこを揃えるべきか、
どこからどこまでワンブロックなのか、
どことどこは対等や対称なのか、
どこが切れ目なのか、
分かってないと美しくレイアウト出来ない。
タイピングは、これらのことをまるっとしないので、
「理解」という点では劣ると考えている。
あとタイピングの劣るのは、漢字変換かな。
漢字は「ひとつの概念を一つの文字(または熟語)」
という体系で、概念と一対一対応をしている。
概念(考え方)と言葉を一致させるのが勉強だというのに、
漢字変換のノイズが常に入るのは、
僕は効率が悪いと思う。
一発で変換できたとしても、「一発で変換できた」
というノイズが入り、
「思考と言葉を一致させ、
自由に扱えるようになることを獲得する」
という勉強の本質に、
ブレーキをかけていると思う。
漢字変換の手間は、コンドーム一枚分損である。
ということを分かって、
手書きでノートを取る人は、
勉強が出来る。
何も理解せずにただノートを取るのはバカ。
理解の確認のためにノートを見返すのは、
まあまあ出来る人。
(出来る人はその場で理解獲得応用出来るので、
二度とノートを見ないこともある)
ノートを取らずに写メするやつは、
カンニングしか出来ず、
自分の中に何も貯めていないバカ。
打ち合わせのホワイトボードを、
若いのが写メするのを見るたびに、
こいつは出来ないやつだなあと嘆いてしまう。
出来るやつは手書きで自分なりに整理して、
何も見ずに応用しながら話に入ってくる。
プレイヤーか、ウォッチャーかの違いというか。
勉強は、プレイヤーになるための方法論だぜ。
ということで、手書きが最もおススメ。
なのに何故タイピングにこれだけご執心?
タイピングが手書きよりかなり劣るから、
多少なりともましにしたいんだよ。
俺はタイピングじゃあ学習できないな。
一発で自分のものに出来る自信がない。
手書きなら大体出来る。
「やってみる」という感覚が一番近い。
ここで書いている脚本論は、
プレイヤーへのコツ集みたいなことで、
脚本を実際に書いてない人には、
ただの偉そうな講釈にしか見えないだろう。
事実、脚本を書かないウォッチャーが、
映画批判に噛み付いてくることがよくあるし。
プレイヤーにしかわからないことは沢山ある。
プレイヤーとしてここを読まないと、
何の意味もないよね。
2018年01月21日
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