2018年01月21日

書くことと思考

一般論なので脚本論カテゴリにて。

どうして板書をノートに写すことが、
勉強なのか?
写メで撮ったらダメなのか?

ダメなんだよね。なんでか。


「いまだにノートで手書きしてるやつは、
効率が悪い。デジカメで撮って、
Evernoteにでも貼ればいいじゃないか」
と考えるやつは、
頭が悪いやつだ。

仕事でも、打ち合わせしたホワイトボードを写メり、
あとで確認するやつがいる。
これも頭の悪い、仕事ができないやつだと思う。

勉強は、何文字書き写すかじゃない。
何文字「頭の中で完全に理解して応用出来るか」
である。


だから、別に写メらず、書きうつさなくたっていい。
話をパーフェクトに理解して、
全て応用が効けば、ノートもEvernoteもいらない。

しかし実際のところ我々は全てを覚えられないから、
ノートに覚えてもらう。

こういう意識でノートをとってるやつは、
頭が悪い。

ノートは授業の記録ではない。
「思考を書くことによって追体験する」
ために、私たちは書くのである。

書くことは、思考を具体的な言語に落とすことである。
我々は書くことによって、
逆に言語になる前の思考を追体験する。
その思考を自分のものにするのが、
勉強というものだ。

自分の発想や思考にないもの、
それを、書くことによって言語化し、
自分の中に入れ、かつ出せるようにする。

勉強とはつまり、自分にないものを、
言語によって獲得する行為である。


これには書くのが一番手っ取り早い。
出力を「自分でする」からだ。

タイピングはいいかな?
僕は手書きをすすめる。
手書きは、自分でレイアウトをしなければならない。
どことどこを揃えるべきか、
どこからどこまでワンブロックなのか、
どことどこは対等や対称なのか、
どこが切れ目なのか、
分かってないと美しくレイアウト出来ない。

タイピングは、これらのことをまるっとしないので、
「理解」という点では劣ると考えている。

あとタイピングの劣るのは、漢字変換かな。
漢字は「ひとつの概念を一つの文字(または熟語)」
という体系で、概念と一対一対応をしている。
概念(考え方)と言葉を一致させるのが勉強だというのに、
漢字変換のノイズが常に入るのは、
僕は効率が悪いと思う。
一発で変換できたとしても、「一発で変換できた」
というノイズが入り、
「思考と言葉を一致させ、
自由に扱えるようになることを獲得する」
という勉強の本質に、
ブレーキをかけていると思う。

漢字変換の手間は、コンドーム一枚分損である。


ということを分かって、
手書きでノートを取る人は、
勉強が出来る。

何も理解せずにただノートを取るのはバカ。
理解の確認のためにノートを見返すのは、
まあまあ出来る人。
(出来る人はその場で理解獲得応用出来るので、
二度とノートを見ないこともある)
ノートを取らずに写メするやつは、
カンニングしか出来ず、
自分の中に何も貯めていないバカ。


打ち合わせのホワイトボードを、
若いのが写メするのを見るたびに、
こいつは出来ないやつだなあと嘆いてしまう。
出来るやつは手書きで自分なりに整理して、
何も見ずに応用しながら話に入ってくる。

プレイヤーか、ウォッチャーかの違いというか。

勉強は、プレイヤーになるための方法論だぜ。



ということで、手書きが最もおススメ。

なのに何故タイピングにこれだけご執心?
タイピングが手書きよりかなり劣るから、
多少なりともましにしたいんだよ。

俺はタイピングじゃあ学習できないな。
一発で自分のものに出来る自信がない。
手書きなら大体出来る。
「やってみる」という感覚が一番近い。



ここで書いている脚本論は、
プレイヤーへのコツ集みたいなことで、
脚本を実際に書いてない人には、
ただの偉そうな講釈にしか見えないだろう。
事実、脚本を書かないウォッチャーが、
映画批判に噛み付いてくることがよくあるし。
プレイヤーにしかわからないことは沢山ある。
プレイヤーとしてここを読まないと、
何の意味もないよね。
posted by おおおかとしひこ at 13:30| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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