登場人物の死は難しい。
安易な死、理不尽な死は、
禍根を残す。
逆に言うと、私たちは、
その死に納得がいかなければならない。
現実に、人が死ぬことを、
私たちはどう受け止めていいか分からない。
自分の死も同じくだ。
寿命があるのだ、と理性で納得する以外ない。
でも事故や突発的な何かで死なれると、
もう本当にどうしていいか分からない。
人でなくてペットでも、
店でもそうかもだ。
潰れた店は切ないし、もはや僕らではどうしようもない。
私たちは死に対して無力である。
葬式や四十九日は、とにかくそれを時間が解決するという、
無理やりの儀式だ。
現実にそうだからこそ、
私たちはフィクションでは、
死に意味が欲しいと思っている。
誰かに何かを託すために死ぬ、
犠牲になって足がかりを掴む、
悪の報いとして酷い死に至る、
などなどである。
逆に、
フィクションで、
意味のない死などない。
あったら、安易と言われるだけだ。
人が死ねば感情が動くから、
盛り上げ要素としては使えるからである。
で、ただ盛り上げておいて、
その死に意味がないと、
虚しくなってゆく。
あるいは逆に、
「死で盛り上げる安易さがフィクションぽすぎるから、
死に意味を求めず、ただ乾いた死にしよう」
という考え方はあり得る。
あり得るが、
それはなんだか虚しくなり、見続ける気力が削がれるんだよね。
たとえば「ファイアパンチ」は、
何の意味もなく死んでゆくだけだった。
サイモン師匠、槍女、マスクマン、スーリャ、
氷の祝福を持ったアキラみたいなやつ、そしてサン。
こいつら何のために出てきたんだ?
ということが全く肩透かしで、
なんだよ出てきたときはスゲエワクワクしたのに、
ただの出落ちかよ、となってしまう。
キャラの無駄遣いということだ。
逆に、無駄に使わないということはどういうこたかを考えると良い。
その死に意味があるかどうか、
ということになるわけだ。
死に意味を持たせるということは、
その人の生に意味を持たせるということ。
その人が何かのために生き、
報われないまま死んだら、
それは意味がなくなってしまう。
フィクションに出てくる人は、
必ず目的がある。
何のために生きているのか、
自分で答えられる(これを劇的文脈、
劇の上での文脈という)。
何のために生きて、は大げさならば、
「私の目的は〇〇である」と、
誰かに宣言することは、そういう場面が来ればするだろう。
だから、それが何にもならずに終わると、
無意味に終わってしまう。
成功したら、それはどういう理由だったのか、
失敗したら、それはどういう理由だったのか。
そういう反省会が、どこかで(それはエンドロールの中かもしれない)
ある。
それが、その人物の意味である。
ドラマ風魔でいえば、
麗羅の死がそうだ。
原作では、武蔵がすごいということを示すための、
「かませ」という意味であった。
ドラマでは、それ以上に、
親友の死が小次郎を成長させる。
麗羅の一言が風林火山の習得のきっかけになる。
つまり、麗羅は無駄死にではない。
逆に、無駄死ににはしたくないと考える、
登場人物たちが、
死んだ者たちの人生に、なんらかの意味を与える。
それが、死に意味を見出すこととつながっていく。
単に死んだら意味がない。
私たちはその無意味さに耐えられない。
だから意味を見出したいのだ。
現実ですら、
誰かが死ぬと、親切にしてくれたとか、
こういう功績があったとか、
語り出したくなる。
それは、その人の人生が、無意味じゃなかったと、
私たちが確認したいからである。
もっとも、嫌いな人の死ならば、
あんなクソ死んで正解だと、
その人を無意味にしたいだろう。
つまり人は、
その人の人生を、死の際に確定したがるのである。
現実ですらこうなのだ。
現実を少しだけわかりやすくする、
フィクションの役目は、
それを強調することである。
つまり、物語の中の死は、
ものすごく意味がある。
死そのものがドラマティックなのではない。
(場面を派手にするのはガワである)
人生の意味こそが、ドラマティックなのだ。
2018年01月23日
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