2018年01月23日

上手く死ね

登場人物の死は難しい。
安易な死、理不尽な死は、
禍根を残す。

逆に言うと、私たちは、
その死に納得がいかなければならない。


現実に、人が死ぬことを、
私たちはどう受け止めていいか分からない。
自分の死も同じくだ。
寿命があるのだ、と理性で納得する以外ない。
でも事故や突発的な何かで死なれると、
もう本当にどうしていいか分からない。

人でなくてペットでも、
店でもそうかもだ。
潰れた店は切ないし、もはや僕らではどうしようもない。

私たちは死に対して無力である。
葬式や四十九日は、とにかくそれを時間が解決するという、
無理やりの儀式だ。


現実にそうだからこそ、
私たちはフィクションでは、
死に意味が欲しいと思っている。

誰かに何かを託すために死ぬ、
犠牲になって足がかりを掴む、
悪の報いとして酷い死に至る、
などなどである。

逆に、
フィクションで、
意味のない死などない。

あったら、安易と言われるだけだ。
人が死ねば感情が動くから、
盛り上げ要素としては使えるからである。
で、ただ盛り上げておいて、
その死に意味がないと、
虚しくなってゆく。

あるいは逆に、
「死で盛り上げる安易さがフィクションぽすぎるから、
死に意味を求めず、ただ乾いた死にしよう」
という考え方はあり得る。
あり得るが、
それはなんだか虚しくなり、見続ける気力が削がれるんだよね。

たとえば「ファイアパンチ」は、
何の意味もなく死んでゆくだけだった。
サイモン師匠、槍女、マスクマン、スーリャ、
氷の祝福を持ったアキラみたいなやつ、そしてサン。
こいつら何のために出てきたんだ?
ということが全く肩透かしで、
なんだよ出てきたときはスゲエワクワクしたのに、
ただの出落ちかよ、となってしまう。
キャラの無駄遣いということだ。

逆に、無駄に使わないということはどういうこたかを考えると良い。
その死に意味があるかどうか、
ということになるわけだ。

死に意味を持たせるということは、
その人の生に意味を持たせるということ。
その人が何かのために生き、
報われないまま死んだら、
それは意味がなくなってしまう。

フィクションに出てくる人は、
必ず目的がある。
何のために生きているのか、
自分で答えられる(これを劇的文脈、
劇の上での文脈という)。
何のために生きて、は大げさならば、
「私の目的は〇〇である」と、
誰かに宣言することは、そういう場面が来ればするだろう。

だから、それが何にもならずに終わると、
無意味に終わってしまう。

成功したら、それはどういう理由だったのか、
失敗したら、それはどういう理由だったのか。
そういう反省会が、どこかで(それはエンドロールの中かもしれない)
ある。
それが、その人物の意味である。


ドラマ風魔でいえば、
麗羅の死がそうだ。
原作では、武蔵がすごいということを示すための、
「かませ」という意味であった。
ドラマでは、それ以上に、
親友の死が小次郎を成長させる。
麗羅の一言が風林火山の習得のきっかけになる。
つまり、麗羅は無駄死にではない。

逆に、無駄死ににはしたくないと考える、
登場人物たちが、
死んだ者たちの人生に、なんらかの意味を与える。
それが、死に意味を見出すこととつながっていく。


単に死んだら意味がない。
私たちはその無意味さに耐えられない。
だから意味を見出したいのだ。

現実ですら、
誰かが死ぬと、親切にしてくれたとか、
こういう功績があったとか、
語り出したくなる。
それは、その人の人生が、無意味じゃなかったと、
私たちが確認したいからである。

もっとも、嫌いな人の死ならば、
あんなクソ死んで正解だと、
その人を無意味にしたいだろう。

つまり人は、
その人の人生を、死の際に確定したがるのである。



現実ですらこうなのだ。
現実を少しだけわかりやすくする、
フィクションの役目は、
それを強調することである。

つまり、物語の中の死は、
ものすごく意味がある。


死そのものがドラマティックなのではない。
(場面を派手にするのはガワである)
人生の意味こそが、ドラマティックなのだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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