2018年01月24日

【薙刀式】脳内発声と書くこと

書くことの本質的なことかも知れないが、
波打ち際のことなのでタイピングの話で。

脳内発声がない僕は、
どこで言語にするのか。
脳じゃなくて、手のあたりだと思うんだ。


いやいや、脳だろ。
厳密には脳なのかもなんだが、
感覚としては手のあたりということ。

つまり、僕の思考とは、
言語にする以前のなにかなのだ。

それを、「あえて言語化するとしたら」
と、日本語にしているだけのような気がする。

僕の脳内ではつまり、
「思考すること」と、
「思考を言語にすること」
の二つが同時進行している、
ということ。

内核と外層と考えてもらっても構わない。


で、ものを書いているとき、
思考が先行して、
それを追っかけで言語化していると思う。

手書きで書いているときは、
思考→言語→手と、
一連で繋がっていて、
僕の「思考本体」の感覚は内核で、
「言語化」の外層は、脳の外層と手の一体化した、
その部分でやってる気がする。

僕は昔から漫画をかいてたし、
手と脳は繋がっている感覚が人より強いかも知れない。
(逆に左手は思考とは繋がっていない感覚があり、
だからタイピングにおける左手は苦手である)

逆に、手と繋がっている脳の部分が言語に、
それ以前の内核が僕の思考の本体に、
僕からは見えていて、
だから僕は脳内発声なく手書きで言葉を書く。

僕にとって「手」の部分は、喋っているだろう。
僕の本体の脳には聞こえていないが。

で、
僕のいうところの外層が、
脳だという感覚の人もいるだろう。
そういう人は脳内で発声があるんだと思う。
だから、
「手で脳内の言葉を記録する」という感覚で、
書くのかも知れない。
音声テープの書き取りのように。
こうなると、手の速度よりタイピングのほうが速いだろうから、
合理的に手書きよりもタイピングがいいと考えると思う。

僕は、手に言葉を任せている感覚なので、
タイピングにすると、手の感覚が変わってしまうため、
どうやらタイピングよりも手書きを選ぶ傾向にある。


これがローマ字時代は違っていて、
qwertyローマ字でもカタナ式でも、
子音母音を書くわけだから、
脳内発声が存在した。
内核での思考が、外層で言語化されて、
一度溜められて、手に吐き出される感じ。

カナ入力である薙刀式のいいところは、
これをいちいちしなくて、
手書きの感覚の、言語化は手にやらせる感覚になること。
脳内発声がないという感覚に、
戻れるのだ。

カタナ式は、ローマ字配列の中では、
最も優秀であると僕は考えている。
変換まで含んだ配列で、
強い指しか使わず、
アルペジオばかりで、
かつ文書編集のショートカットも充実している。

しかしローマ字であるがゆえに、
僕にとっては脳内発声が存在する。


僕は以前からデジタル執筆に懐疑的で、
手書きのほうが優秀であると主張してきたのは、
思考に脳内発声が必要ないということなのかも知れない。

ローマ字入力しか知らなかったから、
脳内発声の手間ぶん遅れるのが、
嫌だったのかも知れない。
それは効率が悪いと。

ローマ字入力、フリックは、
言うことの記録に過ぎず、
僕の考える脳内発声なしの思考を書くことではない。
そう考えてきたのだろう。
今やっと言葉になったわけだが。



言うことと書くことは、
同じようでいて全然違う。
自分の言うことを録音してみるとわかる。
僕は時々人前でしゃべることがあり、
それのビデオ記録を見るのだが、
書くことよりも効率の悪いことをしている。

まあ、書くことは何回かリライトされた、
言うことの洗練であると考えることも出来るので、
一回めの書くことが、言うことに近いかも知れない。
(その二つを比較したことはない)

ちなみにこのブログは殆どがフリックで書かれていて、
書くことよりも言うことが近い。
何回か同じようなことを言ってる気もするのだが、
まあええわ、ここでも言うとこ、
みたいな感覚も多少ある。
(書くときには現場でそれを直しながら書く)



さて。
人によって、脳内発声の「場所」が、
異なるのではないか、
というのが僕の仮説だ。

極論すると、僕の脳内発声は手のあたりでしているわけだね。
口の代わりに手になっているのかも知れない。
ある種の失語症みたいなことがあり、
手で代用してるのかも知れない。

僕は吃音ではなかったが、
歌うのが苦手で、人前で声を出すのが嫌いだった。
そういうことが、手を発達させた可能性がある。
(逆に手が器用だったからそれに頼り、
口を発達させることを嫌がったのかも知れない)

また極論するけど、
そういう陰キャは、手で書くから脳内発声なしで、
カナ入力が向いていて、
喋る陽キャは、脳内発声ありだから、ローマ字でも文句がなく、
でも効率優先でカナ入力をする、
という仮説でも立てておくかな。


僕にとっては、
カナの配列は、手書きの代わりにならなきゃいけない。
だから、あの辺にあれがあるべき、
という感覚がある。
なにせ手が言葉を組み立てるからだ。
台所と同じで、材料と調味料の導線が最短になるようでないと。

それが薙刀式における、
「本質的な音が右に、つなぎの音が左に」
という感覚のもとであると思う。



今改めて他の配列を研究しているのだが、
そのような感覚を感じるものが少ない。

飛鳥配列が一番感じるが、
違う人の台所という感じがする。
台所みたいな感じのする配列は、あんまりないみたい。

たとえば徹底的な連接効率を考えられた、
日本で最も美しい新下駄配列は、
僕のような「手で言語化する」輩に向いていないと思った。
先に言葉ありき、それを書写する、
ということに最大効率化してある感じがする。
テープ起こし最強みたいな感じ。
僕の言葉の書き方と真逆の感覚を一番受ける配列だ。

新JIS、月2-263、下駄は、
その中間の感じがする。
手ごね感がどこかに残っていて、
それが「現場で言葉をつくる」という感覚を感じるのかも知れない。

親指シフト(ニコラ配列)は、
最初は台所がシンプルだったのに、
色んな人がごちゃまぜにした結果、
使いにくくなった台所、
という感じだ。

カタナ式を作る前、
ちょっと触ってみたのだが、
その音がそこにあるのかよ、
というのがいくつもあり、
絡み切った釣り糸のような混乱を覚えて、
これのどこがいいんだと捨てて、
ローマ字を追求しようと決意した。
(その時点ではあとJISカナしか知らなかったし)

その、ごちゃごちゃした釣り糸のような、
使いにくい台所のような感覚は、
改めてニコラ配列をぽつぽつ打ってみても、
変わらない。

小海配列も台所っぽいけど、
蜂蜜小梅になるとそれが消失するようだ。


なんだろうね。
手法的には、
手ごね感と、計算的効率最大の違いなのかも知れないが、
「言葉がそこにある感覚」のありなしに、
僕には思えてくる。

右手重視とか、左右交互打鍵重視とか、
そういうスペック的なことも関係しているかも知れない。



で、僕みたいな感覚の人は、
ここで挙げた配列に、似た感覚を持つかも知れないし、
全然違う感覚を持つかも知れない。
僕と言葉の感覚が合う人は、
薙刀式が合うかも知れない。


qwertyローマ字はやっぱりクソで、
JISカナもクソだと思う。
最低新JISか親指シフトでないと、
日本人は外人のキーボード並みに、
キーボードを扱えないと思う。

なんでこうなったんだっけと色々調べると、
要するにブラインドタッチなんて誰も出来なくて、
サイトメソッド(キーボードを見ながら打つ)
の時代の標準でJISキーボードが決められて、
新JISや親指シフトは、
やはりブラインドタッチでの運用で合理的だからで、
その差が決定の差になったのだと感じている。
なんだ、メアキ対メクラの戦いか。

自動車教習所のようなブラインドタッチ教習所を、
メーカーたちが作れていれば、
ブラインドタッチャーが層を作れてたかも知れないね。
家電メーカーという範囲の狭さではそこまでは無理で、
ナショナルのお店ぐらいが、
ひょっとしたらそのチャンスがあったかもなあ。

そういう世界線のSFは面白そうだが、
誰が読むんだよな。笑





で、物書きはどうすればいいんだ?

薙刀式が僕と同じような物書きに、
浸透してくれればいいなと考えている。
posted by おおおかとしひこ at 08:40| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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