2018年01月25日

小道具の使い方4:象徴の下手な例

これはそのまま説明下手と直結する。


仮に、AとBが、XとYを暗示していたとしよう。
これが、見ていても伝わらないのが、下手な象徴表現だ。

「実はABは、XYの暗示なんすよ」
なんて得意がっている作者は、
絶対その意図が伝わっていないと考えるべきである。
だってその解説なしには、
見た人は分ってないということだからだ。

SW1が公開された頃、
通称連合と帝国の関係が、
今の政治状況を暗示している、
日本人にはピンとこないだろうが、
アメリカ人全員は分る、
なんて批評を見たことがあるが、
この批評家はばかじゃないかと思った。

「その比喩が本編で何にも使われていない」からである。

たとえば通称連合はアメリカの暗示で、
帝国がテロISISの暗示だとしよう。
で、それが何か?だ。

本編中で、
通称連合が帝国の汚いやり方に対して、
正義を示して叩きのめす、とかいうのがあれば、
「我々アメリカはテロに屈することはない」
と、明確に暗示することになる。
それは、象徴表現が機能していることになる。

しかし、暗示しただけで何にも使っていない、
つまり、動詞の目的語にしていないなら、
それは本編中にないも同然だ。

じゃ、絵を描いただけで終わりなのだ。

映画は絵を描いて終わりではない。
それの相互作用や変化を、動詞を使って示す、
時間軸をもった芸術である。
ということは、絵を描いただけでは、
それはただの出オチというのだ。

「これは裏設定では、XとYを暗示してるんすよ」
なんてどうでもいい。
使っていないなら、それはただの独りよがりである。


XYを暗示する、ABをどう使って本編中で絡ませ、変化させるのか。
それが出来て、はじめて象徴表現が使われている、
ということだと思う。
XYを暗示しただけで終わっているのは、
象徴表現には入らない。

たとえ話は、
たとえたあとからが本番だ。



たとえば。

人生は野球のようなものだ。
最終回が回ってくるまでわからない。

最終回、つまり晩年のことを言う為に、
最初のたとえが使われている。
二行目が無くてただたとえていても、
それは表現のレベルが低い。
posted by おおおかとしひこ at 16:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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