これはそのまま説明下手と直結する。
仮に、AとBが、XとYを暗示していたとしよう。
これが、見ていても伝わらないのが、下手な象徴表現だ。
「実はABは、XYの暗示なんすよ」
なんて得意がっている作者は、
絶対その意図が伝わっていないと考えるべきである。
だってその解説なしには、
見た人は分ってないということだからだ。
SW1が公開された頃、
通称連合と帝国の関係が、
今の政治状況を暗示している、
日本人にはピンとこないだろうが、
アメリカ人全員は分る、
なんて批評を見たことがあるが、
この批評家はばかじゃないかと思った。
「その比喩が本編で何にも使われていない」からである。
たとえば通称連合はアメリカの暗示で、
帝国がテロISISの暗示だとしよう。
で、それが何か?だ。
本編中で、
通称連合が帝国の汚いやり方に対して、
正義を示して叩きのめす、とかいうのがあれば、
「我々アメリカはテロに屈することはない」
と、明確に暗示することになる。
それは、象徴表現が機能していることになる。
しかし、暗示しただけで何にも使っていない、
つまり、動詞の目的語にしていないなら、
それは本編中にないも同然だ。
じゃ、絵を描いただけで終わりなのだ。
映画は絵を描いて終わりではない。
それの相互作用や変化を、動詞を使って示す、
時間軸をもった芸術である。
ということは、絵を描いただけでは、
それはただの出オチというのだ。
「これは裏設定では、XとYを暗示してるんすよ」
なんてどうでもいい。
使っていないなら、それはただの独りよがりである。
XYを暗示する、ABをどう使って本編中で絡ませ、変化させるのか。
それが出来て、はじめて象徴表現が使われている、
ということだと思う。
XYを暗示しただけで終わっているのは、
象徴表現には入らない。
たとえ話は、
たとえたあとからが本番だ。
たとえば。
人生は野球のようなものだ。
最終回が回ってくるまでわからない。
最終回、つまり晩年のことを言う為に、
最初のたとえが使われている。
二行目が無くてただたとえていても、
それは表現のレベルが低い。
2018年01月25日
この記事へのコメント
コメントを書く