興味深い一行を見つけたので、引用する。
頭にあることを純粋に表象することを
書くことだと勘違いしやすいと思う(いとうせいこう)
「文學界」平成12年のアンケートで、
ワープロと手書きのことについてであった。
その中でいとうせいこう氏は、
ワープロの欠点について既に指摘していた。
どういうことかというと、
「頭の中にある何かを、
正確に吐き出しただけでは、
表現に届いていない」
ということだ。
他人の夢をそのまま見ても、
面白くもなんともないということ。
首尾一貫性がなく、あやふやで、
ご都合主義でリアリティがない、
一部だけしか拡大してない、
思いつきの切れ端のような、
ただの妄想(頭の中の表象)を、
首尾一貫し、詳細なる存在性があるようにし、
現実の必然で展開するようにして、
各所に目端が効くようにし、
連続して編まれたものにしない限り、
それは表現したことになっていないということだ。
表現は頭の中のコピーじゃない。
その先の整理こそが表現だということ。
僕がこれだけ入力についてこだわっているのは、
フリックもカタナ式も薙刀式も、
しょせんは頭の中のコピーしかしていないということを、
ずっと気にしているからだ。
(少なくとも指が喋るという状態はそれを意味している)
薙刀式は頭の中の脳内発声が止むので、
ようやく頭の中のコピーから、
表現の道具になりかかっている。
僕が40年練って来た手書きに近づくためには、
年単位の熟練が必要だとは思うけど。
ワープロをはじめとする、
親指シフトや最新の配列は、
全て「頭の中をコピーする」がゴールであるように思う。
それは表現からすれば、まだ表現の門に入っていない。
ツィッターがバカ発見器だというのは、
頭の中が外に出ていて、
表現にまで昇華していないということ。
頭の中を垂れ流したって、
1ミリも表現なんかしていない。
あなたの頭の中の物語を、
あなたはただ記録しているだけか?
それとも表現の領域まで高めているのか?
頭の中を出し切って気持ちええとかやってるうちは、
表現でもなんでもないんだよね。
デジタルは、その克己を、
忘れさせてしまう悪魔の囁きだと思う。
まあ、
だから手書きで書いて、
二校以降はデジタル、
という変則を僕は採用してるんだけど。
利点と欠点を知るのは道具を使う基本なのだが、
デジタルはその客観性を失わせるに十分な強力さがある。
2018年01月26日
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