おそらく、自覚的にこれを使い分けている人は、
かなりの経験者だと思う。
下書きとプロットは、大体同じ意味でしか使われてないと思う。
どう違うのか?
以下、僕が使う意味での違いを。
下書きは、
「書きたいところ、一番燃えるところ、
ピークのところを中心に書いて、
ほかは存在しないかのように書く」
ことが多い。
つまり、「何が中心なのか」
「何を力を入れて書くのか」
みたいなことを書く。
プラトンは、
「プロットは、
それを見る人がまるで本編を見るときの同じような感情を催すように書く」
と言っているが、
それはあくまで下書きの話だと思う。
泣ける話なら、下書きで泣けるかどうか。
笑える話なら、下書きで笑えるかどうか。
ワクワクする話なら、下書きでワクワクするかどうか。
あくまで「こういう話を書きたい」
という作者の重心を書くのが、
下書きのような気がする。
絵でいうとクロッキーのような。
顔が書きたいときは、
顔を主に描き、
首や手はちょっと適当に描き、
足なんかはごにょごにょした線で描く。
そんな感じ。
一方、プロットはデッサンのようである。
どんな骨格をしていて、
その骨はどこまで伸びていて、
何と重なっていて、
それは目には見えないが中には入っていて、
表面の何に影響しているのか、
理解しないとデッサンは描けない。
つまり、プロットは、
話の分解と、再組み立ての設計図だ。
何が起こるのか。
何故起こるのか。
何をするのか。
何故そうするのか。
次になぜそうなり、なぜこうなるのか。
それの何があとで使われるのか。
それらの「線」の精緻な組み立てが、
プロットである。
手慣れた人なら、複数のサブプロットの線を、
ひとつのプロット表に盛り込むことができるが、
最初は主人公のメインプロットだけで精一杯だろう。
矛盾せず、首尾一貫した、
なぜこうなってああならないか、
という理屈そのものが、
プロットを書くことだと僕は思う。
勿論、
その理屈の計画書に、
どういう強い感情があるかを、
下書き的に盛り込めているのが、
パーフェクトなプロットであるとは思う。
下書きはプロットではない。
中心のことは書けていても、
全体が矛盾しないかどうかとかの、
チェックは後回しになる。
プロットだけでは、
矛盾なき証明のようなもので、
どこが書きたいのか、どういう心の動き方をするのか、
いまいち見えてこない。
もしあなたがプロットが下手だという自覚があるならば、
プロットを書かずに、
下書きだけを書いているのかも知れない。
(だからあとあと執筆段階で、
準備してないことがたくさん出てくる)
もしあなたがプロットを綿密に書いても、
プロデューサーに「どういう話かイマイチ掴めない」
と言われるのであれば、
下書きのような、強い感情を中心に書いていないのかも知れない。
ついでに、下書きとプロットは、
現場でも混同されている。
プロットを書かずに、執筆はできない。
あとあと、書いてなかった所で絶対に詰まるだろう。
「ファイアパンチ」は、
下書きは作っていたが、
全体のプロットなんて作っちゃいなかったのではないか?
だからヨレヨレの矛盾だらけで、
困って時間飛ばし(暗転)ばかりしていたのではないか。
もしプロットが下手な人は、
考えを改めて、
下書きとプロットを分けてみてはどうか。
僕は下書きをイラストでやることがたまにある、
強い感情の部分を表現するには、
文章より絵がはやいから。
つまり下書きは点(の集合)で、プロットは線だ。
2018年01月28日
この記事へのコメント
コメントを書く