2018年01月29日

総括する

人の話を聞いた時、人は総括する。
ああ、大体ここが中心で、ここが大事なのだと。
それはその場で行われる記憶の圧縮だ。

それが、あなたの話でも起こるだけのことだ。


どんな風に書いたとしても、
人はあなたの話を総括する。
それは細かいところまで覚えられないからである。
どんなに気をつけて細かい細工をしても、
その時は覚えていても、
あとに残るとは限らない。
それは、総括が行われるからである。

校長先生の朝の挨拶。
政府からの広報。
友達の今日の出来事。
〇〇の噂話。
フィクションの話。

なんでもいい。
全ての話は、要点を中心に総括される。
それは話のインデックスを作っていて、
それを元に長期記憶から呼び出すための構造化だ。

結局それはそういうこと。
それが総括だ。

それは、話の中にあったディテールが取られることもあるし、
話の中になかった何かで総括される場合もある。

たとえば「まんじゅうこわい」の総括は、
「人はどこまでも欲張りである」だ。
そんな言葉はどこにもないが、
そのように総括される話である。
「今から欲張りに際限はないって話をします」もないし、
「ほんとお前は欲張りだねえ」もないし、
「これは欲張りに際限はないって話でした」というサゲでもない。

にも関わらず、私たちは「今度はお茶がこわい」
という落ちにおいて、
「まったく欲張りに際限はないことだ」
と人の業について思いを馳せて、
笑ってしまうわけである。

その笑いの理由が総括になっている、
というのが、優れた落語ではないかと僕は考えている。


これは、
「たとえ作者が明示しようとしなかろうと、
総括は起こる」ということを意味し、
「作者が総括したいことと、
見た人の総括がずれることがある」
ということも意味する。
逆に、
「上手な語り手は総括の誘導が上手で、
下手な語り手は総括を誘導しようとして失敗している」
ということも意味する。

たとえば、総括に不要なパートが多く、
ノイズになる場合だ。
Aで総括したいのだが、
関係ないBCDなどもあり、
うまくAと総括できない、
というケースだろう。
まとまりきれていない、風呂敷を畳みきれていない、
テーマがぶれている、終わった感じがしない、
そういうものは、大抵、Aというひとつに総括しづらい構造になっている。

たとえば漫画「GANTZ」「ファイアパンチ」などが挙げられる。
総括するには余計なストーリーラインが多く、
整理されていないどころか、
投げっぱなしで放置されたものも沢山ある。
それは結局総括をしきれず、終わった感じがしない。
それを口語で言えば、
「結局なんやったん?」
「何がいいたかったんや」
「バラバラやないかい」
「モヤモヤするわ」
ということに他ならない。


フィクションのストーリーは、
「言いたいこと」があるわけではない。
主張や演説や情報は言いたいことがあり、
それが伝わるように構造化されるべきで、
総括が言いたいことの要点になる必要がある。、
しかしフィクションのストーリーは主張ではなく、
お楽しみである。
が、リアルな主張や情報と同じように、
要点と構造のある、総括しやすい構造であるべきだ、
というのが僕の考えだ。

結局なんなのか、
モヤモヤしておしまいは、
要するにスッキリしないからだ。

私たちは何のためにフィクションを見るのか。
スッキリしたいからだ。

嫌なことが現実であったり、
複雑な現実の前で立ちすくんでいるから、
少し簡単にした世界のフィクションを楽しんで、
スッキリしたいからだ。
(その簡単にしたレベルで、
幼児向けから大人向けまでたくさん階層がある)

スッキリするというのは、
総括がストレートにうまくいく、
ということに他ならない。


総括は、
「悪は良くない」「努力は報われる」
「人のために生きた方が最終的にはいい」
などの、比較的簡単で広範囲に応用のきく、
道徳的古典的価値なものから、
「人の欲張りに際限はない」のような、
皮肉の効いた告発から、
ピンポイントで現代的なものから、
様々なパターンがありえる。
新しくて手垢のついてないものもあれば、
古典的でも価値のあるものもある。
広く受け入れられるものもあれば、
ピンポイントで刺さるものもある。
すぐ忘れてしまうものもあれば、
ずっと覚えているものもある。
現代にしか価値がないものもあれば、
時代を超えるものもある。


あなたの話した物語は、
それを聞いた人の脳の中で、
総括される。
あなたがそれを誘導することもできるし、
あなたの意図していない受け取り方をされることもある。
その総括の最終形を、
あなたが最初から見えているのが理想だ。


で、
この総括されたなにかを、
テーマという。

テーマは作者の言いたいことではない。
フィクションで言いたいことを言うのは、
メディアを間違えている。
言いたいことがあるならストレートに言えばいいだけのこと。

フィクションとは、
それが明示されていないのに、
上手に総括する遊びである。

そのようにコントロールするのが最上だ。
それが出来ていないのは、
出来ていないダメなストーリーである。
posted by おおおかとしひこ at 10:27| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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