よく言われることだ。
それは「へえそんなこと知らなかった」
という、雑学や蘊蓄を混ぜることではない。
まあ、最悪なにもないよりかは、
雑学蘊蓄でごまかしていく手もある。
知られていない史実を掘り起こして、
「本当はこうだったのに、誰も知らないんだなあ」
と感心させるのも、発見ではある。
しかしそれは、
「ストーリーとは発見である」ということから少し遠い。
正しい発見とは、
「人間にはこんな面がある」とか、
「これまで考えもしなかった考え方」とか、
「これは不思議だがありえることかも」とか、
「こうだとすると、このような新しい考え方になるのか」
とかのことだ。
つまりガワでなく、
ストーリーの本質部分に発見がある(点)、
または、その本質の変容や影響(線)に発見がある、
ということ。
「賢者の贈り物」を例に取れば、
二人の記念日に、
夫は自慢の時計を売って妻の美しい髪をとく櫛を買い、
妻は自慢の髪を切って売り、夫の時計のバンドを買う。
ここで私たちが発見することは、
「お互いが思うあまり似たような行動をして、
偶然の奇跡が起こることもある不思議(シンクロニシティ)」だ。
それが対称形になっていることで、
私たちは夫婦の理想を見るのである。
これは、ストーリーにしか出来ない発見である。
ストーリーにおける発見とは、
人間の本質、人間関係の本質、人間社会の本質を、
ストーリーによって、
さも新しく発見したかのように思わせるのだ。
ああ、人ってそういうことあるよね。
ああ、人間ってのは。
ああ、そうだそうだ。
ああ、そういう風に出来てるよな。
そんな風なことで、
かつ、新しい何かを提供することが、
私たち作家たる者のするべきことである。
そもそもそれが新鮮で手垢のついてないことを、
しなければならない。
人生経験が足りないと、
その発見が幼いことがある。
幼いなりの七転八倒がうまく描けていれば可愛げもあるんだが、
幼いやつが幼い悟りを開いてドヤ顔していると、
我々大人は嘲笑する。
分かりやすい例は意識高い系だ。
小さい知識でドヤ顔してる馬鹿を見ると、
火炎放射器で燃やしたくなるよね。
幼い悟りでも、
謙虚で必死で向上心があれば、
まだ緩い目で見ていられる。
問題はそこで完成だと胡座をかくことだ。
私たちは日々発見をするべきだ。
人間にはこういうところがあると。
そしてそれを、上手にストーリーの形式に落とし込めたとき、
オリジナルの物語になる。
それがストーリーを書くという行為のことだと、
僕は考えている。
勿論、ストーリーによって、
皮肉、批評、批判から、
応援、推薦、賛歌から、
第三者的判断保留、冷徹な突き放しまで、
様々にあるだろう。
それはストーリー形式と、描く本質的発見によって、
異なってくることは間違いない。
なにも発見がないから、
あなたのストーリーはただ形式をなぞっているだけなのだ。
(この文章は「地獄楽」批評を兼ねています)
記事で幼い発見を批判してらっしゃいますが
具体的にどこらへんでしょう。
処刑人の女が「殺しには殺す覚悟が必要だったんだ」
と悟る場面や
主人公が自分は実は空っぽじゃなかったんだと悟る場面とか。
こういう心はすでに描き尽くされていて
手垢まみれだよ、ということでしょうか。
この作品の批評も兼ねた記事とのことですが、
具体的指摘をお願いしたいです。
もしかしたら大岡監督の批評を勘違いしてるかもしれないので。
スッキリさせときたいのでどうかよろしくお願いします。
細かいところが色々あって全部指摘するのも面倒なので、
「ごく普通の平凡な内面の女を愛するところ」
一個を上げるにとどめます。
ビジュアルが醜女というのは気に入りましたが、
あまりにも内面が面白くない。
何かありそうだから後々明かされるのかも知れないけど、
第1話だけで「生きて君の元へ戻る!」というほどの動機にはなりえないと思います。
本人がそう思ってるだけで、我々読者は、
「その通りだ!」と思えていない。
どうして主人公はそう思うに至ったのかが面白くないと、
そこは面白くないポイントになります。
ただ逆目の設定を出していて本人だけが面白がってる感じが、
師匠に似てないか?と。