2018年01月31日

何故主人公は死なないのか?

考えたことがあるだろうか?

これはフィクションにおける基本ルールだ。


「主人公が大ピンチ!助かるのか?!」
という状況下で、
「どうせ助かるんだろ。
主人公が死ぬ映画なんてないし」
と冷めた目線で語る人がいる。

じゃあその人に聞いて見なさい。
なんで死なないルールになっているのかと。
そういうものだからとしか答えられないだろう。
作る側の考えとして考えていないからだ。


ゲームの例を取る。
プレイヤーキャラは、
基本死なない。
いや、HPが0になったり、
高いところから落ちたりすれば死ぬ。
でも復活する。
死んでゲームオーバーにはならず、
復活の呪文で復活したり、
残機があれば何回も出来たり、
仮にゲームオーバーになっても、
課金したりスタートボタンを押せば、
復活した状態で復活する。
つまり、死なない。

ゲームにおいては、
「死んでも、死ななかったことにして、
最後までやる」のが常識だ。

つまり、パラレルワールドがいくつもあり、
死ぬ世界線は沢山あるが、
死ななかった世界線が、
ずっと続いていて現在まである、
ということを前提としている。

ちなみに「ウィザードリィ」はそれに対して画期的で、
キャラクターが死んで教会で蘇らせても、
ある確率で復活せずデータごと消えるという、
恐ろしいゲームだった。
どんなに大切に育てたスーパーキャラでも、
HP0にはしない戦闘が求められた。
本当の意味で死の恐怖をシミュレートしているのは、
僕はこのゲームしか知らない。
なにせ死ねば、またLV1のキャラメイキングからだ。
ゲーム自体は単純なダンジョン探索ゲーだけど、
これほどリスクと死の香りが漂うゲームを知らない。

ウィザードリィ以後ドラクエに至り、
「死んでも復活」というのはゲームの基本になってしまう。
たとえ死んでも、死ななかった世界線の続きを、
最後まで見ることが、
人の欲望なのだと僕は思う。


これが、映画で主人公が死なない理由だ。

映画は、ゲーム以上にリアリティのある、
「人生のシミュレーション」である。
そこには様々なリスクがあり、
失敗したらリセットすることなく、
自力で立ち直らなければならない。
全部うまくいく最善ルートはない。
どこかで必ず失敗し苦渋を舐め、復活しなければならない。
むしろ映画は、目的に対して困難だらけにするものであり、
失敗したり成功したりしながら、
前に進んで行く。

で、死んだら前に進むことに、二度とチャレンジ出来なくなってしまう。
だからそれだけは避けて、
死ななかった世界線で、
「人生のチャレンジのシミュレーション」をするのが、
映画というジャンルだ、
と考えることができる。

だから、チャレンジはリアルであるべきだ。
あり得る失敗もリアルに描くべきだし、
苦い気持ちもリアルに描くべきだし、
そこからの苦難や逆転や解決の糸口もリアルに描くべきだ。
ご都合での解決が嫌われるのは、
それがチャレンジのリアルなシミュレーションだからだ。

こういう場面で、どうチャレンジするべきか、
それを楽しむのが映画というストーリーである。

そのリアリティの階層は色々あって、
アクション映画みたいな大味なものから、
家族の不和みたいな距離が小さい分息がつまるようなリアリティまで、
様々で、
その階層を「ジャンル」という。

ジャンルとは、ラブストーリーとかコメディとかの、
表面上の棚の色分けでなく、
「人生のチャレンジのシミュレーション」としての、
リアリティ度合いのことをいう。
(もっともコメディは、死んでも死なないような、
リアリティとは遠い世界で人生を戯画化するものが多いが)


だから、ゲーム世界をベースにしたラノベや映画なんて、
シミュレーションとしては下の下の下だね。
それはリアリティとは遠すぎる。


で、
主人公が死んでしまうと、
シミュレーションを最後まで続けられない。

失敗し、チャレンジし、挫折し、立ち上がり、成功し、
それらを何回も繰り返した先にある、
真の成功までの人生シミュレーションが、
映画である。
(ハッピーエンドの場合)。

これが映画のストーリーの定義のようなものだ。


だから、主人公が死ぬわけがないのだ。
死のギリギリまで行くことはあるが、
最後まで成功する責任が、主人公にあるからである。


「主人公が死なないというルールを破ったろ」
と、途中やラストで殺すストーリーを、
中二的反抗心で書いてみたまえ。
ていうか書いたこともあるかも知れない。
それは、
「人生の成功のシミュレーション」という、
「死なない」という表面的なものに隠された、
真のルールを無視した、
何も考えていないストーリーにしかならないだろう。

主人公が死ぬと、むなしくなる。
「人生に滅多なことでリアルな成功はない」
ということを確認するだけだからだ。

その現実を私たちは大人になれば嫌という程知ることになる。
だからこそ、
「こういうリアリティのある成功シミュレーション」
である映画が、人を惹きつけるのだ。

バッドエンドですげえとか言ってるのは、
社会に出たことのない厨房だけだ。
ハッピーエンドに成功することがすげえんだよな。



ということで、
あなたの、
「リアリティのある架空の人生成功シミュレーションストーリー」は、
死んで逃げるよりも、
最後までリアルな成功になることのほうが、
どれだけ難しいか分かると思う。

だから物語は、挑む価値があるんだと思うよ。


何故主人公は死なないのか?
リアルな成功物語を、最後まで書くためである。
posted by おおおかとしひこ at 10:30| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
シグルイのオチについてはどうお考えですか?
別に主人公が死ぬわけではありませんが
あれも相当なバッドエンドだと思います。
愛する人は死んでしまったが宿敵を打倒することはできたので
完全なバッドエンド、というわけではないんでしょうか?
あのオチは良いオチなんでしょうか?
個人的には
「人生ってこんなもんかよ…」
という虚無感に襲われてしまいました。
Posted by そうま at 2018年01月31日 12:57
そうまさんコメントありがとうございます。

バッドエンド全般に言えることですが、
「そう物語のようには、リアルはうまくいかないものだ」
と示す為にあるように思います。
つまり皮肉ですね。

シグルイに関しては、
そもそも彼らの動機は世間にほめられたものではない、
善とも悪とも尽きないものなので、
スッキリした落ちがこないほうが、
「我々はこの世に納得がいったわけではない」
ということを示しやすいと思います。

ただ、僕はハッピーエンドの物語のほうが好きですね。
深く「この世とはこのようなものである」
と腑に落ちさせるものが、ほんとうの物語だと思います。

なのでシグルイは、「相当に面白いが、最高ではない」と考えます。原作と大幅に落ちを変えてもよかったのでは、
と後半からラストの流れを思い出す度に思います。
Posted by おおおかとしひこ at 2018年01月31日 21:30
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