前記事と関連して。
そういえば、いつのころからか、
「一回失敗したらおしまい」
の風潮がつよくなってきた気がする。
これは人生をゲーム的にとらえすぎているのではないか、という話。
ゲームにおいては、
たいてい死がある。
しかしそれは真の終わりではなく、仮の終わりである。
死んだら終わりなのは、「その1ゲーム」であって、
リセットしたり復活させれば、
また死んだこと関係なしに、
同じゲームができるという仕組みになっている。
いっぽう、人生は一回死んだら終わりだ。
この世から退場しなければならない。
(その先があるかどうかは、現在我々が知る手段はない)
ゲームでは、
何回もやりなおせるという特性がある。
間違えて死んでは覚えて行く、
「死にゲー」があるくらいで、
幾つかの関門をすべてノーミスでぬけれた時が真の成功、
というゲームもある。
つまり、
「死んでもリセット」と、
「一度も死なないノーミス」は、ワンセットだ。
ゲームとは、
何回も死んで、パーフェクトなノーミスプレイをするためにある。
勿論、覚えゲーだけではないが、
基本となる考え方は同じである。
MMOだろうが格ゲーだろうが、
「全部をノーミス、あるいはパーフェクト」こそが至高だ。
全装備全アイテム集めも、全戦績全勝をめざすのも、
チートでそれをしようとするのも、
「全部をノーミス、あるいはパーフェクト」を目指しているからである。
この価値観を、現実に過度に適用したのが、
現代の「一回失敗したら終わり」の価値観ではないか、
というのが本題だ。
ゲームでは、
失敗は死である。
だからリセットされ、
再チャンスをもらう。
人生はそうではない。
失敗してもリセットはされない。
失敗した直後から再ゲームである。
だから、
「ごめんなさい」と謝ったり、
「あれは間違いでした」と反省したり、
「今度はこうしよう」と改良をはじめたりする。
一方ゲームでは、
間違いはリセットされて、なかったことになる。
だから、
「あれは間違いでした、すいませんでした」
と失敗を認めて再出発することや、
それを周囲も認識し、また再チャンスを上げる、
という、「つづく人間関係」というのが存在しない。
ただリセットだ。
これを知らないゲーム脳が、
「人生は失敗したら死ぬ」
と、短絡に思い、
失敗したときのリカバリ能力が低く、
逆に失敗を極度に恐れて、
冒険しないことの、原因ではないか。
「失敗は死」というデジタル状態が、
これらの原因であると考える。
つまり、ほんとうは、失敗したら、
それを償ったり、それをリカバリして、
もとに戻したり、それ以上に逆転したり、
という、長く続く関係性があるというのに、
それを経験せずに過ごしてきたことが、
「炎上したら終了」
「失敗したら人間関係ごとリセット」
「失敗しないための準備は万全で、成功するための努力は0」
のような「現状維持が最善」の世界観を作ってきたのではないか。
もっと平たくいうと、
ゲームの世界観で人生や人間社会を見てしまっているということだ。
こういう人に、
「リスクをとれ」と言っても、多分通じない。
リセットする前提のものに、リスクをとるのはいいが、
リセットが効かないものにリスクは取れないと考えてしまう。
ほんとうは、リスクがあってもそれごと続いていくのが、
失敗もあり、成功もあり、山あり谷ありが、
ゲームじゃないリアルの人生なのだが。
もし「人生のゲーム」が、
オンラインオープンワールドで実装されたらどうなるだろうか。
初期値が最高値になるまでリセマラし、
ノーミス最短で全アイテム集めて成功したやつが、
最高とみられるだろう。
リアルの人生はそうではない。
ミスはある。ノーミスで生きてきた人はいない。
むしろ、
初期値の不利さを逆転したり、
大失敗を大成功に変えてきた人が、
偉大なる人ではないか。
その為には、
ゲーム的には傷だらけの戦績になるんじゃないかなあ。
ゲーム脳ってのは、物理的な脳の状態じゃなくて、
人生観がゲーム基準になってるやつのことを、言うんじゃないか。
デジタルは人を幸せにしない。
リセットできない人生の生き方を、教えてはくれない。
(かつてウィザードリィという、キャラがほんとに死んでしまう、
つまりデータごと消去されるゲームにはまった身からすると、
たとえ傷だらけの戦績でも「生きてさえいれば勝ち」
という価値観があるのだよ)
2018年01月31日
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