2018年02月04日

主観映像とメアリースー

後輩に、最近主観映像の企画が多くてかつ詰まらないのは、
なんでかと言われ、考えてみた。

ざっくり言うと、
主観映像は客観的でないからだ。
つまり、メアリースーを呼んでいる。



まず主観的体験がある。
それを誰かに話すことを考えよう。
これがお話の原型だ。
「自分が体験したことをリアルに語る」
ことである。

しかしそれが主観的に選ばれた内容だということを、
考えないといけない。
どういうことかというと、
「体験した人には面白いかもしれないが、
聞く人には面白いとは限らない」
ということだ。

体験は主観である。
だからそれが面白いかどうか判断し、
取捨選択するのも話者の主観だ。
だからそれは、その人にとって面白いかもしれないが、
他の人にとって面白いとは限らない。
友達、知ってる人の話なら、その人本人が前にいるから、
面白く聞けるかもしれない。
しかし知らない人の、価値観の違う話を聞いても、
たいがい遠いところの話で、ぴんと来ない。


一人称小説は、これに似ている。
ある一人称的体験を、
その目から追体験する。
いわばVRだ。
普通のVRはカメラによる映像だが、
一人称小説は、文章によるVRだ。
これを映像化すれば、主観映像になるだろう。


我々が扱う、
「普通の映画的物語」は、
三人称形式である。

それには客観性がいる。
主観的に面白いのではなく、
客観的に面白くあるべきである。
なぜなら、その体験者を外から見るからだ。

その人と関係なくても、
「傍から見ても」
面白くあるようでないと、
三人称形式の物語は面白くない。

それを知らないで、
一人称の面白さ、VRの面白さ、体験の面白さを、
そこに持って来ても滑るだけである。

(勿論、共通に使えるネタが0とは言わない)

求められている面白さが違うのだ。


体験の面白さは、主観的だ。
三人称の面白さは、客観的だ。

ここで、例のメアリースーがやってくる。

メアリースーの原因は、
「三人称形式である主人公を、
主観的な自分だと勘違いすること
(または分離が出来ていないこと)」
であった。

これはつまり、VRと同じだということだ。


三人称の状況は、VR的な状態ではない。
VRでは周りが見えていなくても構わないが、
三人称では周りが見えている。
周りを気にした行動や判断が求められる。

主観では何をしてもよい。
好きなことをしてもよい。
しかし客観では、「あの人は何をやっているんだ」
と、周囲の目がはいる。

その違いだ。

一人称、VR、主観映像は、
すべて主観である。
三人称、芝居、普通の映像的物語は、
すべて客観の中で進む。


後輩が言うところの、
「詰まらない主観映像」というのは、
客観的であるべきところに、
主観の面白さを持ってきた勘違いというところだろう。

つまりメアリースーだ。
文字通り、「周りが見えていない」のだ。


あなたがVR作家であれば、
主観的世界を追及してもいいかもしれない。
もし映画の脚本が書きたかったり、
漫画や演劇のストーリーのことが考えたいのなら、
客観的な視点で考えることだ。

あなたはそこのどこにいる?
主人公のなかにいるなら、それは主観的であり、
もはや客観を見失っている。
posted by おおおかとしひこ at 01:42| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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