前記事のつづき。
体験型イベントとか、体験型アトラクションがある。
ざっくりいうと遊園地だ。
これは物語ではない。
前者は主観であり、
後者は客観だ。
前者は一人一人が体験する。
後者は全員が同じものを集まって共有する。
体験物と人は一対一の関係を結ぶ。
物語は皆に共有される。
勿論、上手な物語は、
客観的三人称的なものの形式なのに、
「まるで自分が体験しているような」
感覚を覚えさせることができる。
他人であるはずの、
イマジナリーラインの向こう側の人物が、
いつのまにか自分であるように錯覚させる。
この錯覚こそが、物語という形式なのだ。
錯覚させない下手な物語は、
「冷めた目で見ている、勝手にやってろというショウ」
である。入れない、というやつだ。
あるいは錯覚させることが本質だということを分かっていない、
下手なやつの物語は、
「俺の体験はすごい」でしかなく、
客観性を欠いている。
どちらも、作り手本人の意欲だけが空回りする。
つまり滑る。
体験型イベントと、
我々映像チームが組んで、
何かできないかという仕事が最近増えた。
それは今金が動くのはそこだからだ。
残念ながらそういう仕事を受けてくるプロデューサーは、
主観と客観のことを理解していない。
深く理解してないから、
結局滑るものしか使っていないと思う。
目の位置が違うんだ。
いる場所が違うんだ。
「あなたの目はこれから30分間、
あなたの体を離れて、
このアンバランスゾーンに突入する」
(ウルトラQのナレーションね)
ことでいうと、
目が主観、
客観物なのに目を突入させるように錯覚させる、
作用そのものが、私たちが追求するものだ。
それを一言で言うと感情移入だ。
(感情移入と共感は異なることなど、
感情移入を僕は特別な狭い意味で使っているので、
それに関しては過去記事を読んでくれたまえ)
「映像体験」という言葉が僕はとても嫌いだ。
感情移入作用を追求する素晴らしい映画というメディアを、
ただのVR機器に貶める言葉だからである。
ユーチューブや自撮りは全部VR体験でしかない。
つまり、スマホの発達が、
客観的三人称的感情移入体験を、
阻害していることになるかもしれないね。
それが映画産業、映画文化を衰退させるのか、
並立で進むのかはわからない。
しかし、脚本でそれを判断し、
ビジネスとして成立させようとする、
地力自体は、衰退の一途を辿っているのは確かだ。
2018年02月04日
この記事へのコメント
コメントを書く