ゲームの話を忘れていた。
ゲームも主観的体験である。
もはやVRのヘッドセットか、
テレビモニタか、スマホかの差があるだけで、
中身は同じかも知れない。
さらにその昔をたどれば、
将棋だって麻雀だって、
スポーツだって、
TRPGだって、
主観的体験である。
(TRPGのゲーマスやシナリオの立場は、
僕は経験がないのでここでは踏み込まない)
どんな世界を与えられようが、
「世界と主観の体験」であることに、
変わりはないと考えられる。
これに例えれば、
私たちのつくる物語とは、
スポーツ観戦に似ている。
観客は一人も野球選手ではない。
しかしその誰かの一人になって、
その人の目を共有することができる。
あるいは解説を聞いて、
「そういう考え方で動いていたのか」と、
新しい目の獲得をすることもできる。
将棋観戦もそうだろう。
ゲームの実況動画は?
登場人物が一人で、
プレイも一人プレイなら、
物語ではなさそうだ。
VRも同じで、
ヘッドセットつけた人を外から見たって何も面白くない。
ただの夢遊病者に似ている。
(オナニーを側から客観的に見ることと同じ)
これが登場人物が二人になると、
話は変わってくるかも知れない。
例えば格闘ゲームの観戦は、
物語の鑑賞に似ている。
「スポーツは筋書きのないドラマだ」というのは、
テレビ放映につくコピーだと思う。
つまり、観客から見て、
それがそう見えるということ。
主体が複数いて、
そのどちらからの目線も、
側から想像することができること。
それこそが、主観的な体験と、
物語的なものを分ける線かも知れない。
だから一人プレイの実況動画は主観で、
二人対戦プレイ(協力も含む)は、
客観である可能性がある。
相手がCPUならどうだろう。
スト2CPU戦は、やはり主観どまりだろう。
物語は人間を描くとか、
コンフリクトがエンジンである、
とかいう脚本論の常識は、
つまりは、
「主体が一人ではなく、複数あり、
そのどちらの目からも世界が見えるように、
想像できる観客席」
こそが、
物語の本質であることを示唆している。
で、最初の後輩の質問に戻る。
「なぜ最近つまらない主観映像の企画ばかりが増えているのか?」
これは「なぜメアリースーが増えるのか?」
と同じことであると思う。
答えは、
「主観的楽しみばかりで、
客観的楽しみを知らないからだ」
ということが出来そうだ。
ネットによって、みんな孤立してるんだな。
繋がる道具のせいで、分断と孤立が進んでいる。
それが21世紀かもしれない。
で。
私たちは、面白いスポーツ観戦のようなものを、
提供すればよくて、
VRコンテンツを考えてる場合じゃないのさ。
2018年02月04日
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