2018年02月04日

主観と体験2

ゲームの話を忘れていた。


ゲームも主観的体験である。
もはやVRのヘッドセットか、
テレビモニタか、スマホかの差があるだけで、
中身は同じかも知れない。

さらにその昔をたどれば、
将棋だって麻雀だって、
スポーツだって、
TRPGだって、
主観的体験である。
(TRPGのゲーマスやシナリオの立場は、
僕は経験がないのでここでは踏み込まない)

どんな世界を与えられようが、
「世界と主観の体験」であることに、
変わりはないと考えられる。


これに例えれば、
私たちのつくる物語とは、
スポーツ観戦に似ている。

観客は一人も野球選手ではない。
しかしその誰かの一人になって、
その人の目を共有することができる。
あるいは解説を聞いて、
「そういう考え方で動いていたのか」と、
新しい目の獲得をすることもできる。

将棋観戦もそうだろう。

ゲームの実況動画は?
登場人物が一人で、
プレイも一人プレイなら、
物語ではなさそうだ。
VRも同じで、
ヘッドセットつけた人を外から見たって何も面白くない。
ただの夢遊病者に似ている。
(オナニーを側から客観的に見ることと同じ)

これが登場人物が二人になると、
話は変わってくるかも知れない。

例えば格闘ゲームの観戦は、
物語の鑑賞に似ている。

「スポーツは筋書きのないドラマだ」というのは、
テレビ放映につくコピーだと思う。
つまり、観客から見て、
それがそう見えるということ。

主体が複数いて、
そのどちらからの目線も、
側から想像することができること。

それこそが、主観的な体験と、
物語的なものを分ける線かも知れない。

だから一人プレイの実況動画は主観で、
二人対戦プレイ(協力も含む)は、
客観である可能性がある。

相手がCPUならどうだろう。
スト2CPU戦は、やはり主観どまりだろう。



物語は人間を描くとか、
コンフリクトがエンジンである、
とかいう脚本論の常識は、
つまりは、
「主体が一人ではなく、複数あり、
そのどちらの目からも世界が見えるように、
想像できる観客席」
こそが、
物語の本質であることを示唆している。


で、最初の後輩の質問に戻る。
「なぜ最近つまらない主観映像の企画ばかりが増えているのか?」
これは「なぜメアリースーが増えるのか?」
と同じことであると思う。

答えは、
「主観的楽しみばかりで、
客観的楽しみを知らないからだ」
ということが出来そうだ。

ネットによって、みんな孤立してるんだな。
繋がる道具のせいで、分断と孤立が進んでいる。
それが21世紀かもしれない。



で。
私たちは、面白いスポーツ観戦のようなものを、
提供すればよくて、
VRコンテンツを考えてる場合じゃないのさ。
posted by おおおかとしひこ at 15:04| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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