日本語を原稿用紙に書くときに最初に思ったことは、
「一文字がヒトマスになるのがおかしい」
ということだったと記憶している。
日本語のひとかたまりは、
一文字や一音じゃないと思う。
音節とか、熟語がひとかたまりだよな。
語頭になんか張り付くやつや、
活用語尾などもひとかたまりに入れるか、
二つ以上に分割するかは置いといて、
言葉の単位で僕らはものを考えていて、
一音、一文字の単位ではぼくらは考えていない。
活版印刷は中国で始まったものだが、
中国語は「一文字一音一概念」という、
世界でも稀な言語だからこそ、
ヒトマスがひとかたまりに相当できるわけだ。
(熟語や成語はのぞく)
逆にだからこそ文字数が莫大で、
それが中国語学習の参入障壁になる。
でも音で覚えれば、多分そんなに難しくないんだろうな、
と想像している。
こういう言語においては、
ひとかたまりヒトマスは、
最も自然で合理的だろう。
英語はどうだろう。
「ワード」がそれにあたる。
26文字しか使わない言語ではあるが、
それらを組み合わせた「1ワード」が英語の単位だと思う。
それらをスペースで区切るのが、
英語のタイピングだ。
単位とスペースを交代に打っていくのである。
だから、中国語と英語は、活版印刷に相性がよいと思う。
(英語は改行において、活版印刷と相性が悪いが)
さて日本語だ。
日本語のネイティブな書き方はなんだろう。
筆による続け文字だとぼくは思う。
「一息に筆で書ける範囲」こそが、
日本語の単位ではないかと僕は考えている。
勿論墨の限界でかすれたりすることもあるが、
そういう物理的なことは置いといて、
色々と言葉を貼り合わせた(膠着語)、
一息の筆の軌跡が、
日本語の単位だと僕は考えている。
それを無理矢理原稿用紙に落とすのは、
僕は日本語の解体だと感じていた。
勿論、それは方便だということは頭では理解していたが。
だからか、
配列作りにおいて、
2gram頻度とかいう人の気が知れない。
2gram単位が言葉ではないからである。
「2gramでの悪運指を撲滅すれば、
全てが良運指になる」という理屈は勿論理解できるが、
言葉の単位は2gramではない。
もっと数文字に渡る一筆書きである。
薙刀式は、そのような一筆書きを、
出来るだけキーボードというハードウェアに落とし込んだものであることは、
使った人なら分かる感覚だと思う。
片手アルペジオと左右交互打鍵を駆使すれば、
「ある言葉のひとかたまりを、
一筆書きで書いているような感覚になる」
ように、なるべくしたつもりだ。
その時に打鍵の障害になるのは実は同時押し部分で、
(一筆書きとロジックが異なるから)
濁音半濁音拗音外来音同時押しが、
この一筆書きを邪魔しているとさえ、
僕は感じている。
スペースキーによるシフトも本来そうなんだけど、
何故か邪魔してると感じないのは、
連続シフトの恩恵だと考えている。
ここ最近ずっと同時押しのミリ秒のことを調整していて、
これは高速打鍵を単に邪魔しているのではなく、
「一筆書き」を邪魔しているのだ、
ということが、
ようやく分かってきた。
古い世代には伝わると思うけど、
ウルトラマンが通信に使う「ウルトラサイン」というやつがあって、
あれはたいがい一筆書きだった。
(それに点の修飾文字がついてたかな)
ああいう感じで、
僕は文字を書きたい。
手書きではそうしている。
ボールペンで続け字まがいの何かを書いている。
日本語を書くときは、
最後の一画が、次の字の最初の一画の入る方向に向く。
そう書かないところが言葉の途切れで、
英文タイピングにおけるスペースの役割のところだと、
僕は思う。
デジタルでこれが出来ないから、
僕はこれまで手書きで第一稿を書いてきた。
たかが原稿用紙に書くようには、
日本語は書くものではないからだ。
そもそも言葉は、枠に収まるように書くものではない。
誰もいない雪原に、最初に足跡をつけていくような行為だ。
(昔の作家のオリジナル原稿を見ると、
ヒトマス一文字に、必ずしも書かなかった人が、
沢山いることがわかる)
そうそう、僕は仕事でフォントを並べてデザインすることもあるけど、
フォントを等幅で並べるのは日本語として良くない。
カーニングといって、
文字間を文字によって変えていかないと、
読みやすい言葉に見えない。
たとえば横書きでは、「り」「う」はたいてい縦長なので、
左右を少し詰めたほうがいいし、
「か」はたいてい右開きなので右を詰める(フォントによる)。
コツは、「最終画が次の最初の画につながるようにする」こと。
ひらがなと漢字では、漢字の級数(大きさ)を少し大きめにすることもある。
そうすると線の幅が違ってくるから、
小さい方の線を太くして、同じニュアンスにする。
こういうことを、広告の美しい文字デザインでは普通にする。
(最近してない手抜きが増えた。安い発注なんだな)
このこと自体、
「日本語はヒトマス一文字を、単位としていない」証拠だ。
だから僕の作るCMでは、
「一筆書きが単位になるように文字間を調整して、
読みやすくする」ということをしている。
配列に話を戻すと、
「左右交互打鍵率最大化」という人は、
どうにもロボットみたいだ。
数学としては美しいけど、それでなんなん、と思ってしまう。
言葉は数学ではない。
私たちの人生が数学ではないのと同じだと思う。
配列のことをやり始めた人は、
理系やプログラマーが多いから、
人生の半分くらいが数学的な人が多いと思う。
人生観や生き方や発想が、という意味でだ。
でもそうじゃない人も沢山いて、
そういう人は日本語を、一筆書きで考えていると思うのだ。
「一筆書きの単位」は、
文節のような文法的な何かで区切れるのだろうが、
詳しくないので〇〇と言えない。
薙刀式は、そのひと区切りを一息の運指で打つように、
工夫したつもりである。
全部が出来てるわけではもちろんないけど、
出来るだけ本質的なことが、そうなるようにした。
僕の言葉が好きな人は、多分向いている配列だと思う。
2018年02月04日
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