2018年02月04日

【薙刀式】そもそも一文字が単位か?

日本語を原稿用紙に書くときに最初に思ったことは、
「一文字がヒトマスになるのがおかしい」
ということだったと記憶している。


日本語のひとかたまりは、
一文字や一音じゃないと思う。
音節とか、熟語がひとかたまりだよな。

語頭になんか張り付くやつや、
活用語尾などもひとかたまりに入れるか、
二つ以上に分割するかは置いといて、
言葉の単位で僕らはものを考えていて、
一音、一文字の単位ではぼくらは考えていない。

活版印刷は中国で始まったものだが、
中国語は「一文字一音一概念」という、
世界でも稀な言語だからこそ、
ヒトマスがひとかたまりに相当できるわけだ。
(熟語や成語はのぞく)
逆にだからこそ文字数が莫大で、
それが中国語学習の参入障壁になる。
でも音で覚えれば、多分そんなに難しくないんだろうな、
と想像している。

こういう言語においては、
ひとかたまりヒトマスは、
最も自然で合理的だろう。

英語はどうだろう。
「ワード」がそれにあたる。
26文字しか使わない言語ではあるが、
それらを組み合わせた「1ワード」が英語の単位だと思う。
それらをスペースで区切るのが、
英語のタイピングだ。
単位とスペースを交代に打っていくのである。

だから、中国語と英語は、活版印刷に相性がよいと思う。
(英語は改行において、活版印刷と相性が悪いが)

さて日本語だ。

日本語のネイティブな書き方はなんだろう。
筆による続け文字だとぼくは思う。
「一息に筆で書ける範囲」こそが、
日本語の単位ではないかと僕は考えている。

勿論墨の限界でかすれたりすることもあるが、
そういう物理的なことは置いといて、
色々と言葉を貼り合わせた(膠着語)、
一息の筆の軌跡が、
日本語の単位だと僕は考えている。

それを無理矢理原稿用紙に落とすのは、
僕は日本語の解体だと感じていた。
勿論、それは方便だということは頭では理解していたが。


だからか、
配列作りにおいて、
2gram頻度とかいう人の気が知れない。
2gram単位が言葉ではないからである。
「2gramでの悪運指を撲滅すれば、
全てが良運指になる」という理屈は勿論理解できるが、
言葉の単位は2gramではない。
もっと数文字に渡る一筆書きである。

薙刀式は、そのような一筆書きを、
出来るだけキーボードというハードウェアに落とし込んだものであることは、
使った人なら分かる感覚だと思う。

片手アルペジオと左右交互打鍵を駆使すれば、
「ある言葉のひとかたまりを、
一筆書きで書いているような感覚になる」
ように、なるべくしたつもりだ。

その時に打鍵の障害になるのは実は同時押し部分で、
(一筆書きとロジックが異なるから)
濁音半濁音拗音外来音同時押しが、
この一筆書きを邪魔しているとさえ、
僕は感じている。

スペースキーによるシフトも本来そうなんだけど、
何故か邪魔してると感じないのは、
連続シフトの恩恵だと考えている。

ここ最近ずっと同時押しのミリ秒のことを調整していて、
これは高速打鍵を単に邪魔しているのではなく、
「一筆書き」を邪魔しているのだ、
ということが、
ようやく分かってきた。


古い世代には伝わると思うけど、
ウルトラマンが通信に使う「ウルトラサイン」というやつがあって、
あれはたいがい一筆書きだった。
(それに点の修飾文字がついてたかな)
ああいう感じで、
僕は文字を書きたい。

手書きではそうしている。
ボールペンで続け字まがいの何かを書いている。

日本語を書くときは、
最後の一画が、次の字の最初の一画の入る方向に向く。
そう書かないところが言葉の途切れで、
英文タイピングにおけるスペースの役割のところだと、
僕は思う。


デジタルでこれが出来ないから、
僕はこれまで手書きで第一稿を書いてきた。
たかが原稿用紙に書くようには、
日本語は書くものではないからだ。

そもそも言葉は、枠に収まるように書くものではない。
誰もいない雪原に、最初に足跡をつけていくような行為だ。

(昔の作家のオリジナル原稿を見ると、
ヒトマス一文字に、必ずしも書かなかった人が、
沢山いることがわかる)


そうそう、僕は仕事でフォントを並べてデザインすることもあるけど、
フォントを等幅で並べるのは日本語として良くない。
カーニングといって、
文字間を文字によって変えていかないと、
読みやすい言葉に見えない。
たとえば横書きでは、「り」「う」はたいてい縦長なので、
左右を少し詰めたほうがいいし、
「か」はたいてい右開きなので右を詰める(フォントによる)。
コツは、「最終画が次の最初の画につながるようにする」こと。

ひらがなと漢字では、漢字の級数(大きさ)を少し大きめにすることもある。
そうすると線の幅が違ってくるから、
小さい方の線を太くして、同じニュアンスにする。

こういうことを、広告の美しい文字デザインでは普通にする。
(最近してない手抜きが増えた。安い発注なんだな)

このこと自体、
「日本語はヒトマス一文字を、単位としていない」証拠だ。

だから僕の作るCMでは、
「一筆書きが単位になるように文字間を調整して、
読みやすくする」ということをしている。



配列に話を戻すと、
「左右交互打鍵率最大化」という人は、
どうにもロボットみたいだ。
数学としては美しいけど、それでなんなん、と思ってしまう。
言葉は数学ではない。
私たちの人生が数学ではないのと同じだと思う。

配列のことをやり始めた人は、
理系やプログラマーが多いから、
人生の半分くらいが数学的な人が多いと思う。
人生観や生き方や発想が、という意味でだ。

でもそうじゃない人も沢山いて、
そういう人は日本語を、一筆書きで考えていると思うのだ。

「一筆書きの単位」は、
文節のような文法的な何かで区切れるのだろうが、
詳しくないので〇〇と言えない。


薙刀式は、そのひと区切りを一息の運指で打つように、
工夫したつもりである。
全部が出来てるわけではもちろんないけど、
出来るだけ本質的なことが、そうなるようにした。

僕の言葉が好きな人は、多分向いている配列だと思う。
posted by おおおかとしひこ at 17:23| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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