2018年02月09日

決定を怖がる心理

とくに若い人にはこれがあるかもね。
自分はどういう人なのか、決められない人が多い。
そういう人は物語を書いても同じ傾向がある。
主人公がどういう立ち位置なのか分からない、
はっきりしないまま最後までいってしまう。
たいていラストに決まるということは多いけど、
それまで怒涛のように色々あるなら面白いのだけど、
たいていは決まらないまま、
ずるずると行ってしまうばかりである。


どういう心理でこういう事を書いてしまうかというと、
決定するのがこわいからだ。
こわいというのは言い過ぎかもしれないが、
なにか決定するのが恐いから、
決定を先延ばしにしたがると思うのだ。
優柔不断なのは表面上の見かけに過ぎず、
多分一歩を踏み出すのが恐いんではないだろうか。

で、
あなたの心理なんかはどうでもいい。
ストーリーの中が面白くないと意味がない。
あなたの心理と作品世界は関係がない。
一致させてはいけない。
我々は嘘つきである。
作品が面白くさえあれば、
あなたの内部と一致してるかどうかは関係ない。
作品とあなた自身は切り離して考えるべきだ。
前記事の天使と悪魔のエクササイズは、
その練習でもある。


作品内では、
はっきりした人物であるほうが面白い。
さらによいのは、
それがジェットコースターのように、
色々な色を帯びることである。

自信がある人がある事件に接して急に自身が失われたり、
暗い人が自分の好きな事を語るのに急に饒舌になったり、
気分がよかったのに、ショッキングな出来事に遭い、
塞ぎこんでしまったりする。

ああいう人がこういう出来事に接して、
そうなってしまうのが、物語というものだ。
その軌跡を追うのが物語であり、
それがはっきりしていればしているほど、
話のエッジが立って分かりやすくなる。

決定するのが恐いと、
「そのどれにも決めたくない」という心理が働く。
主人公はその状態のままキープして、
他の人物がうごいて、
お膳立てを整えてほしくなる。
つまりそれは、
メアリースーを呼び寄せることになるわけである。

あなたと作品内の世界は違う。
違うから色々無茶を出来るのだ。
違うから、
(無責任にも)主人公にひどい目に合わせたり、
立場が二転三転するように描けるのだ。
その度に主人公は迷ったり、
戸惑ったり、悩んだりするだろう。
しかし危険が迫っているから、
立ち止まることは出来ず、
なんらかの態度を(仮に)決め、
それに従って前に進まなければならないだろう。

つまり、目的に向かって進むためには、
「いま自分はこれをするのだ」
と、自分をはっきり決めなくてはならないのだ。
そうでないと、
「おまえは何がしたいのだ?」
と問う未来の協力者に対して、交渉に持ち込めないではないか。
「なにもしたくないんです、決定するのが恐いから」
という主人公は、物語の中にはいないのだ。

とにかく、自分の立場や目的を決めなければならない。
そうでない限り、積極的な行動なんて出来やしない。

そしてそれは、すべて「仮」である。
ストーリーの進行に従って、
それらは二転三転するからである。

「いま」自分はどういう立場で、
どういうことがしたくて、
どういうことを捨てて、
どういうことを取りに行きたいのか。
そういうことが常にあること。
そしてそれはいい所で変わっていくこと。
それが展開というものだ。


あなた自身が、自分が決められない人間かどうかに、
僕も観客も関心はない。
しかしストーリーの中の主人公が、
自分の態度を決められず、
うだうだしていて何もしないのなら、
そんなストーリーは切って捨ててしまうだろう。

あなた自身とストーリーが違うということは、
あなた以上に面白い人物を、
主人公にしてもいいということを意味している。

いまそこにないもの、ことをつくること。
それが創作だろ。
posted by おおおかとしひこ at 01:38| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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