とくに若い人にはこれがあるかもね。
自分はどういう人なのか、決められない人が多い。
そういう人は物語を書いても同じ傾向がある。
主人公がどういう立ち位置なのか分からない、
はっきりしないまま最後までいってしまう。
たいていラストに決まるということは多いけど、
それまで怒涛のように色々あるなら面白いのだけど、
たいていは決まらないまま、
ずるずると行ってしまうばかりである。
どういう心理でこういう事を書いてしまうかというと、
決定するのがこわいからだ。
こわいというのは言い過ぎかもしれないが、
なにか決定するのが恐いから、
決定を先延ばしにしたがると思うのだ。
優柔不断なのは表面上の見かけに過ぎず、
多分一歩を踏み出すのが恐いんではないだろうか。
で、
あなたの心理なんかはどうでもいい。
ストーリーの中が面白くないと意味がない。
あなたの心理と作品世界は関係がない。
一致させてはいけない。
我々は嘘つきである。
作品が面白くさえあれば、
あなたの内部と一致してるかどうかは関係ない。
作品とあなた自身は切り離して考えるべきだ。
前記事の天使と悪魔のエクササイズは、
その練習でもある。
作品内では、
はっきりした人物であるほうが面白い。
さらによいのは、
それがジェットコースターのように、
色々な色を帯びることである。
自信がある人がある事件に接して急に自身が失われたり、
暗い人が自分の好きな事を語るのに急に饒舌になったり、
気分がよかったのに、ショッキングな出来事に遭い、
塞ぎこんでしまったりする。
ああいう人がこういう出来事に接して、
そうなってしまうのが、物語というものだ。
その軌跡を追うのが物語であり、
それがはっきりしていればしているほど、
話のエッジが立って分かりやすくなる。
決定するのが恐いと、
「そのどれにも決めたくない」という心理が働く。
主人公はその状態のままキープして、
他の人物がうごいて、
お膳立てを整えてほしくなる。
つまりそれは、
メアリースーを呼び寄せることになるわけである。
あなたと作品内の世界は違う。
違うから色々無茶を出来るのだ。
違うから、
(無責任にも)主人公にひどい目に合わせたり、
立場が二転三転するように描けるのだ。
その度に主人公は迷ったり、
戸惑ったり、悩んだりするだろう。
しかし危険が迫っているから、
立ち止まることは出来ず、
なんらかの態度を(仮に)決め、
それに従って前に進まなければならないだろう。
つまり、目的に向かって進むためには、
「いま自分はこれをするのだ」
と、自分をはっきり決めなくてはならないのだ。
そうでないと、
「おまえは何がしたいのだ?」
と問う未来の協力者に対して、交渉に持ち込めないではないか。
「なにもしたくないんです、決定するのが恐いから」
という主人公は、物語の中にはいないのだ。
とにかく、自分の立場や目的を決めなければならない。
そうでない限り、積極的な行動なんて出来やしない。
そしてそれは、すべて「仮」である。
ストーリーの進行に従って、
それらは二転三転するからである。
「いま」自分はどういう立場で、
どういうことがしたくて、
どういうことを捨てて、
どういうことを取りに行きたいのか。
そういうことが常にあること。
そしてそれはいい所で変わっていくこと。
それが展開というものだ。
あなた自身が、自分が決められない人間かどうかに、
僕も観客も関心はない。
しかしストーリーの中の主人公が、
自分の態度を決められず、
うだうだしていて何もしないのなら、
そんなストーリーは切って捨ててしまうだろう。
あなた自身とストーリーが違うということは、
あなた以上に面白い人物を、
主人公にしてもいいということを意味している。
いまそこにないもの、ことをつくること。
それが創作だろ。
2018年02月09日
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