英語の歌詞によく出てくる言葉で、
call meとか、
I miss youとか、
2から3音節の言葉。
日本語になかなかうまく訳せない。
訳せないことはないが、
どうしても音節数が増えてしまう。
一般に、音節数が少ないほど、
強く、原始的な感情であり、
音節数が多いほど、
複雑で高等な感情である。
call meを、
「電話して」「連絡をちょうだい」
と訳しても、二音節の強い感情にはならない。
「すぐきて」「待ってる」ぐらいの言葉に意訳できるかどうかは、
文脈次第だ。
それでも4音節になってしまい、
call meほどの強さはない。
I miss youも同じくで、
「あなたがいなくて寂しい」
と訳すと、この3音節の強さに勝てない。
「会いたい」「君がいない」
くらいの短さに縮めてもなお勝てない気がする。
相手を抱きしめて「I miss you」と言う場合もあるし、
そのときは「さみしかった」「会いたかった」
「やっと会えた」「つかまえた」などのように訳すべきだし。
逆を考えよう。
「すき」って台詞は英語にできない。
これほど多様な感情を、
上手に伝える2音節の英語は(多分)ない。
日本語には日本語のニュアンスがあるよね。
「だめよ」はたぶん「no」の言い方で、
大体同じニュアンスにできそうだね。
つまり、
「言語によって、強い感情が違う」
ということを、今言おうとしている。
これは英語を学んだ時に思うことで、
実際、洋画と邦画を見比べていても思うことで、
吹替の現場でもよくあることなのだろう。
洋画のタイトルもこれと同じで、
大概短い音節でまとめてくる。
邦題がクソなのが多いのは、
これを上手に意訳できる才能のある人が、
配給会社にいないからである。
もし「call me」というタイトルの洋画があるとして、
売春婦の話なのか、
殺し屋の話なのか、
ラブストーリーなのかで、
訳し方は変わってくる。
あるいは売春婦をしながら殺し屋をやっている女の話なら、
「殺しの番号0411」「デリバリーキラー」
みたいな邦題にしても構わないだろうね。
さらにここを邦題にせずに、
もっと強い感情で音節数の少ない言葉で、
本編の本質を表すのが、
センスのいい邦題になるというもの。
その言葉の直訳、意訳が正解とは限らない。
おそらく「call me」というタイトルなら、
直訳意訳に挑まないほうが正解で、
つまりは、本質を端的な(音節数の少ない)言葉で表現できるか、
という文学の才能(コピーライティングの才能)が、
必要だろう。
話は逸れるが、
今ろくなコピーライターがいない。
CMのコピーで感動したり感心したり、
新しい概念を知って世の中の見方が変わるなんてまずない。
20年前はあった。
言葉が弱くなったのか、
それともコピーライターが無能なのかは知らない。
現場は、
クライアントのケツを舐めるようなコピーばかり書いてる無能が多い。
私たち普通の人の心に響く言葉をかける人に、
僕は直接あったことがないくらいの遭遇確率である。
そういえば「オデッセイ」というクソタイトルをつけたのは、
どこかの広告代理店のコピーライターだそうな。
クソみたいな才能だという話は、過去に書いたので繰り返さない。
で。
ここぞという台詞は、
音節が短いほど強い。
歌詞でいうサビに当たるところは、
音節数が少ないほど強く、キャラが立つ。
(今パッと思い出したのは「粉雪」。
日本語は4音節に強い言葉が多い)
映画にはサビがあるわけではないから、
強いターニングポイントで、
それがあるのがベストだろう。
映画の中で有名な台詞は、
たとえば「I'll be back」だろうが、
これも3音節という短い台詞になっているわけだ。
これを「すぐもどる」「帰ってくる」なんて訳しても、
まあ普通の台詞にしかならない。
まあ実際この台詞は予告における、
「2をつくるぞ」というキャッチコピーに近く、
本編ではほんとに「すぐもどる」くらいのニュアンスでしか使われていないが。
もちろん、
0音節、つまり無言が一番強い。
それは、万感の思いがあるからで、
つまりそれまでの文脈があれば、
わざわざ言葉にしなくても、
表情や仕草で伝わるくらいになっているからで、
ただ無言でそこにいても何も読み取れない。
ぼくらはエスパーじゃないからね。
数音節の強い台詞も、
それだけ独立して存在するわけではない。
色々あって、
ごく短い言葉に集約するから強い。
日本でいうと、歌物語がその例である。
ちょっとした背景の物語を説明しておいて、
「その場面で詠める歌」と称して17音節の歌を示すと、
短い音節に色々なことが圧縮される。
映画の短い音節で強い感情、
というのもそれと同じで、
ただ「call me」いうても強いわけではなく、
二時間見てきて、最後のセリフが、
もう会えないと分かっているのに「call me」って言った、
とかなら、そこに哀切の文脈が乗る、
という感情の圧縮が起こるわけだ。
ただ短い音節だから強いのではない。
日本語で考えればわかるが、
「すき」なんて台詞を強くするには、
色々あって最後の最後にそういうと強い、
ということが分かるかと思う。
そういえば、「いけちゃんとぼく」の脚本で、
ぼくはいけちゃんの最後の台詞を、
「あいしてる」という5文字にこめた。
もっとも簡単な、そして深い言葉にしたつもりだ。
これをプロデューサー陣は、
「大好き」にしてはどうか、と提案してきた。
なんでと聞いたら、
「あいしてる」なんて普通言わないからだと。
はあ?普通にいう言葉が台詞なのか?
普通そこで言わない言葉を言うから、
そこにこめられた意味が深くなるんだろうが。
そこのギャップの読解力のない者たちが、
少なくとも角川映画ではプロデューサーを名乗れるそうだ。
勝負の場面で逃げるな。
強い感情を、短い音節で言え。
リアルではそんなにバシッと決められないからこそ、
フィクションではバシッと決めるんだ。
それが創作だ。
2018年02月11日
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